農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

石巻ボアランティア報告

 6月17日、18日に石巻の阿部勝子邸(ボアランティア・センター=VCの基地)の生垣の整備と裏山の不要木の伐採などのボランティアに押切珠喜さんと一緒に行ってきました。

 行き帰りの車中で押切さんと話をしていて、被災地の変化とボランティアのあり方を再考する時期に来ているのではないか、との話をしました。その話の途中で押切さんに金華山神職から電話が入り、<龍神祭の鉦叩きが足りないので、VCで手配してくれないか>とのこと。

 本来であれば、これは金華山神社とその氏子がすべきことです。押切さん曰く、「これが6年間のボランティアの一つの結果です。」

 復興のあり方はいろいろあるでしょうが、復興の主体は被災地の住民であるべきで、彼等の自主性(内発的行動)が不可欠の要素であることは当然です。ボランティアされることにより、彼等の自主性が阻害されては本末転倒です。金華山という特殊事情はあるものの、ここに「心の復興」(福田徳三)がなければ意味がありません。外からの、つまり行政やボランティアに頼り切った復興ではなく、自分たちの地域の問題を自分たちで話し合いながら解決していこうとする復興でなければ、真の復興、持続可能な地域社会=新たな共同体の復興はありません。ボランティアはあくまでサポーターであって、主体ではありません。

 

 ところで、阿部勝子さんは、石巻市沢田に一人で住んでいらっしゃいます。万石浦の近くで幸いにも津波の被害をうけませんでした。それで6年前から、押切さんたちなどの多くのボランティアを無償で受け入れてきました。当日も私たち7人を無償で泊めてくださり、とれたての海産物や山菜などの手料理で歓待してくださいました。彼女は「言い方は悪いけど、この震災があって、幸せだ。色々な人と巡り会って、多くのつながりができ、温かい心に触れる事ができて幸せだ」と。

 そんな話の中で、「今晩しりあいの後藤文吾さん夫妻がTVに出演するから」とみんなでTVアサヒの「人生の楽園~復興の街を彩り豊かに~」を観ました。とっても素晴らしい番組で、感動しました。(内容は、インターネットで知る事ができます)

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2011年8月、名古屋市で建設会社を営んでいた文吾さん夫妻は、浸水の被害にあった借家を自分たちの手で修繕して移住し、お二人は様々なボランティアに参加。さらに、“色の無くなった街に色を取り戻したい”と考えたお二人は自宅の周りで花の栽培を始め、育てた花は知り合いの神社などに届けて、街が少しでも明るくなるようにと活動しています。

 ところが驚いたことに、翌日、その後藤夫妻が私たちの手伝いに来てくださいました。

 そして私がチェーンソーで虎刈りにした生垣をきれいにカットしてくださいました。

 

 行政の方から、簡易宿泊施設として登録し、活動してみてはどうか。と勧められたそうですが、金を儲けたりするのは嫌だから、このままでいいとのこと。

 日本では経済成長の終わりとともに、個人の社会的孤立が深刻化し、格差社会で分断されている。「個人」がしっかりと独立しつつ、いかにして新たなコミュニティを作っていくかが課題です。阿部勝子さんのは活動は、そのヒントを示していると思うのですが。

ねむの花忌 ~佐藤義則を偲ぶ会~

 6月11日(日)、山形県最上町の本城の共同墓地において、故佐藤義則の偲ぶ会が行われました。当日は、花曇りの中、義則さんの奥様も大阪から駆けつけてくれ、そして親族、友人、関係者など27名が墓前に集まり、故人を偲びました。

 

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 佐藤義則(1934~79 享年54)は、中学校卒業後、農業に従事しながら本城青年学級などでの学びを通しながら、青年団活動に没頭する。青年会誌『あゆみ』や町の連合青年会誌『山脈』などの編集・ガリ版刷りで中心的な役割を果たしながら、自身も精力的に生活を記録していった。その後紆余曲折を経ながら、最上の地で苦闘しながら、現実の百姓の生活に根差した民話・民族研究に没頭。古老から民話伝承や年中行事などを聞き書きし、それらは『ききみみ小国郷のわらべうた』、『羽前・最上 小国郷夜話』、『ききみみ』、『雪むすめのおくりもの』などに結実する。

 この「ねむの花忌」は、昨年6月に、佐藤義則について調査・研究されている千葉県の芦原敏夫さん(最上町出身)と同じく千葉県の八鍬貞一さん(戸沢村出身)の二人が中心となり、「佐藤義則研究会」が発足。その際に、毎年佐藤義則の命日に偲ぶ会を開催すること(=ねむの花忌)と会報誌(=『オイノコ』創刊号)の発行を決めたことによる。ちなみに「ねむの花忌」としたのは、義則が私淑していた須藤勝三の追悼文の中の言葉<合歓の花のようなあえかな人生>(総合藝術誌『場』1979年8月)から命名したもの。   今後、まだ活字化していないガリ版ずりの青年会誌のパソコン収録活字化を進めること。佐藤義則宅の蔵書・資料の整理・記録、そして活用・保存について取り組みを進めることを申し合わせている。

 私自身、不勉強で佐藤義則を論ずることなどできないのですが、最上町連合青年会機関誌『健青』(ガリ版刷り)の活字化のお手伝いをしながら感じた事は、当時の青年たちの社会と現実の生活に誠実に向き合う姿であった。そして墓前での偲ぶ会の後の直会で親族、友人、関係者から、義則への思い出話を通して感じた事は、参会者の多さとともに、彼等と義則との人間関係の濃さであった。現代の人間関係の希薄(化)さと比較する時、当時の青年団活動や生活記録運動の持つ意義を再考する必要があるのではないかと思った。

金華山復興ボランティア 報告

 今年も53日~6日まで、金華山に行ってきました。

 女川港に12時半頃に着き、時間があったので女川駅周辺を散策してきました。駅前商店街は、大賑わいで、店々が観光客でごった返していました。少しずつ復興しているように感じ、うれしく思いました。

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 港から歩いて、商店街の入り口に東北電力女川原子力発電所、地域総合事務所があり、正面玄関の線量計0.048mSv(ミリシーベルト/hを示していました。

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 ところで女川原発は、牡鹿半島にありますが、外から見ることはできません。しかし、海からは見る事ができます。

 13:30発の金華山行きの船に乗り、5分くらいすると女川原発が見えてきました。(船のガラス越しの撮影で画像が良くありませんが)現在は稼働していません。

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今回のボランティアには、「風の旅行社」のツアーで参加してくれた6名と押切珠喜さんが代表を務めるVC(ボランティアセンター)を支援する会から10数名(参加日程に違いがあり)で総勢20名程度の観光復興支援ボランティアでした。

牡鹿半島の先に浮かぶ震源地から一番近い島~!最盛期は年間60万人が訪れたこの地に … 多くの参拝者(観光客)を取り戻そうと … 然も、単なる“物見遊山”ではない … 信仰と自然への畏敬の念を基軸とした“根源的&文化的な観光”を目指す!」(押切さんの言葉)

 今回も私は、参集殿(金華山の宿泊所)客室の準備作業や参拝者の車による送迎、厨房の手伝いなど。そして金華山にいる鹿の自然に取れ落ちた角を利用したお土産造りのために、山に木を伐りに行きました。津波によって跡形もなくなった海沿いの道路あとを10分ほど歩いたら、廃墟になったホテルが見えてきました。ただこのホテルは震災のはるか前に閉鎖されたとか。年間60万人も訪れていたのですから、ホテルも必要だったのですね。

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 この連休中には、6日に初巳大祭があり普段よりはるかに多い参拝者がいました。金華山に住み込んでボランティアを続けておられる三上さんは、当日、自分も参拝者として大祭に参加したそうですが、自分の玉串奉奠の際に、神社で準備していた玉串が足りなくなっていた、とのこと。2011年の初巳大祭の参加者は、三上さん一人だったそうで、三上さんはこの事を「榊の玉串が足りなくなるくらい、参拝者が戻って来た」と心から喜んでおられました。

 年間60万人の時、1日平均で約1650人です。でも、この日私の感覚では、多く見積もって300人くらいでしょうか。やはりまだまだ、と言うのが実情です。でも震災で激減した参拝客が徐々に戻ってきているのも事実、これからも地道な努力によって復興を成し遂げるしかありません。

 

 私は、震災復興と農山村の再生は基本的に同じものだと思っております。関東大震災の時、東京商大(現、一橋大学)の福田徳三は「復興事業の第一は、人間の復興でなければならぬ。人間の復興とは、大災によって破壊せられた生存の機会の復興を意味する」(『復興経済の原理及若干問題』)と言っています。(岡田知弘『震災からの地域再生新日本出版社2012

ところが、上記の三上さん石巻で被災し、実家は壊滅。現在石巻仮設住宅に住んでいます。そして一年のうちほとんどを金華山に住み込んで、自分の作業機械を持ち込み、崩れた建物、石段、道路など、全てにわたって改修作業をしています。なのに、なのにです!!宮城県の役人から、「石巻の住宅に殆ど住んでいないのだから、出ていけ」と言われたそうです。

みなさんはどう思われますか?

 確かに三上さんは、住宅には年間にしても1ヶ月も住んでいません。しかし11か月は、自分の全てを傾けて復興の支援を続けているのです。彼の破壊された生存の機会宮城県は復興してくれたのでしょうか。彼は無私の心で無償の仕事をしているのです。こんな無慈悲な事はありません。人間の言う言葉とは思えません。<三上さんは、震災の前年まで、金華山神社の氏子総代でした。>

 幸いにも、VCを支援する会の山谷君(彼もまた、無私の人です)が、宮城県にかけあってくれて、事なきを得ましたが、このような感覚がまだまだあるということが、大きな問題です。もしかすると他にも同様の問題があると予想できます。ちなみに仮設住宅を違法に利用している事例が全国で百数十件あるそうです。

 

 今回のボランティアでは、益田文和先生と御一緒させていただき、消失の危機にある個人蔵書の問題について、貴重な教えをいただきました。先生の会社「()オープンハウス」のHPをみたら、このオープンハウスは、オフグリッドとか。私のやってみたいことを実践されています。そして「社会の基本的な仕組みを変え、それにとって代わる生き方のデザインに取り掛かる必要があるはずです」と。これは大震災の時に、国民の多くが気付き、考えた事ではなかったでしょうか。

 

 タマちゃん(押切珠喜さん)に感謝です。彼の生き方には、いつもいつも感動です。今回は、偶然にもタマちゃんの四条畷学園のクラスメートが参拝にいらして、当時の学校の様子をうかがうことができ、有意義な時間になりました。

手仕事 てしごと 「豊かさ」ってなんだろう? 5

 ☆結城登美雄さん講演「てしごと ―過去から未来へつなぐ―」
 結城さんは、いつものように優しく軽妙な語り口で、農家の手仕事の歴史やその意義について、わかりやすくそして、若手の報告者の実践を引き合いに出しながら、手仕事を引き継いでいく意味を話してくださいました。講演の中で伸一君に話を振り、こんな話を引き出しました。
 高橋伸一さんが、藁細工を老人に教えてもらいに行ったとき、奥さんのおばあさんに、「なんでこんなもの習いに来るんだ」「こんなもの、100均(100円ショップ)行くと、もっと良い物ある」と言われたそうである。
 みなさんはどう思いますか?
 もしかしてこれに対する答えが、手仕事を引き継いでいく意義を教えてくれるのかも知れません。
 結城さんは、この話に対して、山口弘道(積雪地方農村経済調査所=雪調の初代所長)『雪と生活』(財団法人農林協会1953年)から、次のような話を引用しながら、見事に答えてくれました。少し長くなりますが、お付き合いください。
 かつて私が、雪調所長として在任中のころ、民芸運動、すなわち柳宗悦氏、河合寛次郎氏、浜田庄司氏などが提唱され活動されていた伝統的民衆工芸品の維持発展の運動を、雪国の東北地方に起すべく、右の三氏を煩して実地調査に行ったのであった。あるとき積雪に埋もれた山形県の一農村を訪れ、某農家に休んだことがある。爐には(中略)薪が赫々と燃えていた。そのとき、爐にあたっておられた河井氏が天井を仰いで突然嘆声を発したので、私も驚いて見上げた。そこには刈りとられた稲の束が天井一杯に房々と吊され、まるで藤棚のようであった。そのとき河井氏の言葉はこうであった。「なんという豊かさであろう!」と。私は静かにその言葉を味わった。そして濶然と自分の眼が開けたように感じた。従来、私は雪国の農村の生活の不合理と非衛生的な面のみを見てきて、その住民の不幸に同情し、なんとかしてこの不幸から農村を救わなければならないと考えてきたのであるが、かかる客観的の味方の半面に、農民自身の考え方、すなわち、主観的な面についてあまり考えを及ぼさなかった。否、農民も私と同様に考えているというようにきめていたのである。(中略)何もこれは「稲の天井」だけの問題でなく、農民が自分の手で作ったものを自分の生活の用に供している自給自足の生活の中には、けっして少なからざる農民の愉悦があるのであった。
 これをお読みになって、どう思われますか?山口は、昭和恐慌や度重なる凶作や大地震によって疲弊した農村を目の当たりにして、貧しく非衛生で、東京などに比べたら比較にならないほど遅れた生活をしている可哀想な農民に同情して、救おうとしていたのです。そこで河合の言葉に開眼!百姓の生活にある真の豊かさ、愉悦に気づくのである。
 戦後、雪調を退官した山口は、帰農する。穿った見方をすれば、東京帝国大学出の超エリートである(戦前の帝国大学出は、今の東京大学とは比較にならないほどでした)彼は、普通に考えれば、大学の教官でも大企業でも道はあったけれど、彼の選んだのは「真の豊かさ」を実現するための百姓だった。とも言えそうである。

 実は私は、この山口の『雪と生活』を読んでいましたが、結城さんに指摘されるまで、この事に気づきませんでした。(読めども、読めず あぁ無情=情けない!!)ありがとうございました。   (完)

手仕事 てしごと 「豊かさ」ってなんだろう? 4

 ◇米澤里奈さん「大江町における青苧のとりくみ」
  『青苧(あおそ)』は、イラクサ科の多年草。江戸時代には最上川舟運で各地へ運ばれ、高級織物の糸として、武士の裃や富裕階級の単衣などに使われていた。県内では、置賜村山地方などで主に栽培され、中でも大江町産は良質とされ、松山藩「第1の産物」され、町は大変賑わっていたそうだ。しかし、明治以降は養蚕が盛んになり、青苧栽培は衰退。今は雑草扱いだそうである。(大江町HP)
  米澤さんは、町おこし協力隊として青苧の復活に取り組み(青苧復活夢見隊)、現在商品化に取り組んでいる。

 今回のお話を聞いて私は、農村や農民の普通の生活の中に宝物がある事を知らされました。「その事に気づかなかった」ではなくて「気づこうとしなかった」のですね。

<つづく>

手仕事 てしごと 「豊かさ」ってなんだろう? 3

 ◇金寛美さん「舟形焼きと長沢和紙」
  大学時代から取り組んでこられた陶工から、自分の住む舟形で発見された「縄文のビーナス」に触発され、縄文土器を現代に蘇らせた「縄文の七輪」。そして800年の歴史を持つと言われる舟形の長沢和紙は安いパルプ紙の普及により販路が断たれ、楮の確保困難から昭和39年に一時途絶えました。これを復活させたのですが、その後継者不足から再度、消滅の危機にあります。これを今引き継ごうとしています。

LEXUS NEW TAKUMI PROJECT縄文七輪

長沢和紙 小学生の体験学習から(舟形町HPから)

<つづく>

手仕事 てしごと 「豊かさ」ってなんだろう? 2

 ◇高橋伸一さん「工房ストローの一年」
  20年ほど町役場職員として活躍の後、昨年退職、帰農した。これまでの農家の日々の生活の中に価値を見出し、その中で藁細工もその一つ。彼の生き方にも感動しました。

 藁細工の多様さに驚くとともに、その芸術性にも驚かされます。右は「ホタル籠」、結城さんによるとこれとほぼ同じようなものが韓国にもあるそうです。韓国ではヨチチブ=「キリギリスの家」と言うそうです。民芸の普遍性を感じます。

<つづく>