農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

念願の大崎博澄さん(高知市のたんぽぽ教育研究所)とお会いしてきました!!!

 7月31~8月4日(金)に、コバちゃんと車で四国の高知へ。元高知県教育長で、退職されてから「たんぽぽ教育研究所」を設立され所長をされている大崎博澄さんに会いに行ってきました。往復約2400キロの長旅でした。
 8月1日、祖谷渓を通り、高知市へ。9時に「はりまや橋」近くの四国管財ビル4Fにある「たんぽぽ教育研究所」に、大崎博澄さんを尋ねました。

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※ <コバちゃん撮影の祖谷渓>
今年の3月5日に、山形市で映画『蔦監督』を観ました。翌日、元池田高校野球部の蔦文也監督のお孫さんで、この映画の監督の蔦哲一郎を真室川のロッジにお呼びして、飲みながら一晩語り合いました。彼は、『祖谷物語 おくのひと』という秀作も作られており、四国に行ったら必ず祖谷渓に来てみようと思っていました。
 私たちくらい山奥に住んでいる人間はいない!と自負していたのですが、祖谷渓には負けました。なんでこんなにも山奥に人がすんでいるのか?想像をめぐらしたのですが、この事については別に機会に。

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 さて、たんぽぽ教育研究所(www.tanpopo-k.net)は、不登校をはじめとする教育相談もあり、居場所としてのフリースペースもあり、講演活動・出版活動もあり。教育政策の研究もされるという。長年大崎さんが描いていた夢を実現したものでした。機会がありましたら、是非、訪れてみて下さい。
 私が大崎さんの著作を初めて読んだのが『小(くう)さ愛(かな)さ』(ガリ本図書館)という本でした。この本に感動し、大崎さんの書いたものを探し始め、どの本にも感動し、なんとしても会いたくなったのです。

 大崎さんは2000年4月、時の高知県知事、橋本大二郎の下で、県の教育長に。以後、8年間教育長を務める。
 一貫して、「小さく弱いものを守る教育の実現に精魂込めるも敗北」(自身の言葉)と言うように、不登校問題を追及する鬼となり教育改革に取り組みました。

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 著書:「野の思想史」、「百石町路地裏かなしみ亭」(以上、私家版)。「山畑の四季」(高知新聞社)、「小(くう)さ愛(かな)さ」(ガリ本図書館)、「子どもという希望」(キリン館)、「詩集 人生の扉は一つじゃない」、「生きることの意味」(たんぽぽ研究所)等々、あります。どの著作も人の心の痛みに寄り添い、哀しみをそっと包みこむような、やさしい言葉に心が休まるもので、是非ともお薦めしたいものばかりです。

 2時間余りの短い時間でしたが、ゆっくりとしたお話しぶりから、一つ一つ言葉を選ぶように教育について話してくださいました。そのお話の中には、やはり御自分の二人のお子さんの存在がうかがわれ、心が痛む思いでした。それとともにいじめと不登校に対する不動の覚悟がうかがわれました。
  御話をする中で、少しずつご自分の今の家庭状況など、自分の弱い部分を披歴され、小さく弱い立場の者達へ「共感共苦」しながら寄り添おうとする強い姿勢が印象的でした。
 本当は、昼頃までと思っていたのですが、相談電話への応対や娘さんからの電話などの本来の業務の間に私達と話をして下さっていたので、遠慮したところでした。
 コバちゃん曰く、苦行を乗り越え、悟りを開いた「ブッダ(釈迦)のような人」 言い得て妙。

 なお、「たんぽぽ教育研究所」の入っているビル、四国管財という清掃会社なのですが、これも素晴らしい会社でした。社員さんの挨拶・応対の素晴らしさを実感してきました。ちなみにこの会社の社長さんが、大崎さんを気に入り、会社のビルの1室を提供しているのです。四国管財のHP も見てほしいものです。そして社長の考え方を知るとなお、わかると思います。

報告 新庄でホタルが乱舞!! 指首野川と五十嵐源三郎

 619日(月)に町内の会議に参加した後、先輩に誘われ、近くを流れる指首野川(さすのがわ)にホタルを見に行ったら、12匹、先輩は見たというのですが、私には見つけられませんでした。翌日一人で見に行ったら56匹見る事ができた。一週間後に見に行ったら、数十匹のホタルが飛んでいた。ちょっとした感動でした。人の話によると前日は何百匹もホタルが乱舞していたとのこと。

 このような街中でホタルが見られるという奇跡!これは偏に町内の「千門町蛍の会」(菅久雄会長)が、12年ほど前に組織され、「指首野川を蛍の棲める川にしよう」と地道に活動してきた賜物です。私もこの活動に昨年から参加させていただき、河川清掃や花植えを手伝わせていただいています。<指首野川にホタルが乱舞>これはすごいことです。何年振りなのでしょうか?

 

 「指首野川」というと思い出す人がいます。五十嵐源三郎(幼名、暎一。19252002)さんです。通称「大五さん」。(望んではいませんでしたが、周りの人に推されて)市会議員をされていました。彼が生涯をかけて取り組んだ事、それは一言でいうと、新庄の歴史と文化を守ることでした。具体的には、

 *当時存亡の危機にあった「雪害」(旧積雪地方農村経済調査所、現雪の里情報館)を守ること。平成264月に国指定登録有形文化財への登録。

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 *「隠明寺凧」の復元と保存です。(これは実現!県有形民俗資料文化財

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 *戸沢藩のお城で使われていた「御用堰」(今は下水路に)と石川町の「御機嫌通り」(新しい道路が出来て、昔の雰囲気が亡くなっている)の復元保存。

 *汚水で汚れた「指首野川」の復活。(私のカメラでは、ホタルが写りませんでした)

 五十嵐さんは、昔、川遊びをした指首野川を復活させることを夢見ていました。今年、そこでホタルが乱舞したことは、復活の一里塚になったといえそうです。あの世できっと喜んでいらっしゃると信じます。 

祈り 李政美コンサート in 新庄 2017

 6月27日(火)、庄司さんの所(そば屋)で恒例の李政美さんのコンサートがありました。その透明感のある、のびやかな歌声にいつも癒されます。彼女は、とても歌詞=言葉を大事にされたゐると感じます。一語一語とても大事にされています。それ故なのか、イメージを増幅させ、風景が浮かんできます。トークもそうですが、歌もとてもストイックで、押しつけがなく、私に自然に入ってくるのです。やっぱり涙がこみ上げてきました。

 コンサートの後、懇親会に参加させていただき、ピアノの竹田さん、ギターの矢野さんとも親しく話を聞き、即興の歌声喫茶の雰囲気で、本当に楽しむ事ができました。いつもこのコンサートを企画してくれる多一さん、ありがとう。

 今回の目玉は、李政美さんが、本格的に歌い始めるきっかけとなった山尾三省の「祈り」と「遺言」でした。私の勝手な願いですが、これからもこの歌を歌い続けてほしいです。このような歌こそ、今必要なのだと思います。

 

祈り

 

作詞:山尾三省

作曲:李政美

南無浄瑠璃

海の薬師如来

われらの病んだ心身を 癒したまえ

その深い 青の呼吸で 癒したまえ

 

南無浄瑠璃

山の薬師如来

われらの病んだ欲望を 癒したまえ

その深い 青の呼吸で 癒したまえ

 

南無浄瑠璃

川の薬師如来

われらの病んだ眠りを 癒したまえ

その深い せせらぎの音に やすらかな枕を 戻したまえ

 

南無浄瑠璃

われら人の内なる薬師如来

われらの病んだ科学を 癒したまえ

科学をして すべてのいのちに奉仕する 手だてとなしたまえ

 

南無浄瑠璃

樹木の薬師如来

われらの沈み悲しむ心を 祝わしたまえ

その立ち尽くす 青の姿に

われらもまた静かに 深く立ち尽くすことを 学ばせたまえ

 

(南無浄瑠璃

風の薬師如来

われらの閉じた呼吸を 解き放ちたまえ

その大いなる 青の道すじに 解き放ちたまえ)

 

(南無浄瑠璃

虚空なる薬師如来

われらの怖れ乱れる心を 鎮めたまえ

その限りない 青の透明に 鎮めたまえ)

 

南無浄瑠璃

大地の薬師如来

われらの病んだ文明を 癒したまえ

その深い 青の呼吸の あなたご自身を あらわしたまえ

 

オンコロロ センダリマトウギ ソワカ

 

※アルバム「わたしはうたう」/アルバム「李政美LIVE2011―いのちの讃歌」所収

 

 

山尾三省氏の「遺言」より引用)

 まず第一の遺言は、ぼくの生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、却初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。

 これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやも知れぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。

 

 第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。

 

 遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。

 南無浄瑠璃光・われら人の内なる薬師如来

 われらの日本国憲法の第九条をして、世界のすべての国々の憲法第九条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。

石巻ボアランティア報告

 6月17日、18日に石巻の阿部勝子邸(ボアランティア・センター=VCの基地)の生垣の整備と裏山の不要木の伐採などのボランティアに押切珠喜さんと一緒に行ってきました。

 行き帰りの車中で押切さんと話をしていて、被災地の変化とボランティアのあり方を再考する時期に来ているのではないか、との話をしました。その話の途中で押切さんに金華山神職から電話が入り、<龍神祭の鉦叩きが足りないので、VCで手配してくれないか>とのこと。

 本来であれば、これは金華山神社とその氏子がすべきことです。押切さん曰く、「これが6年間のボランティアの一つの結果です。」

 復興のあり方はいろいろあるでしょうが、復興の主体は被災地の住民であるべきで、彼等の自主性(内発的行動)が不可欠の要素であることは当然です。ボランティアされることにより、彼等の自主性が阻害されては本末転倒です。金華山という特殊事情はあるものの、ここに「心の復興」(福田徳三)がなければ意味がありません。外からの、つまり行政やボランティアに頼り切った復興ではなく、自分たちの地域の問題を自分たちで話し合いながら解決していこうとする復興でなければ、真の復興、持続可能な地域社会=新たな共同体の復興はありません。ボランティアはあくまでサポーターであって、主体ではありません。

 

 ところで、阿部勝子さんは、石巻市沢田に一人で住んでいらっしゃいます。万石浦の近くで幸いにも津波の被害をうけませんでした。それで6年前から、押切さんたちなどの多くのボランティアを無償で受け入れてきました。当日も私たち7人を無償で泊めてくださり、とれたての海産物や山菜などの手料理で歓待してくださいました。彼女は「言い方は悪いけど、この震災があって、幸せだ。色々な人と巡り会って、多くのつながりができ、温かい心に触れる事ができて幸せだ」と。

 そんな話の中で、「今晩しりあいの後藤文吾さん夫妻がTVに出演するから」とみんなでTVアサヒの「人生の楽園~復興の街を彩り豊かに~」を観ました。とっても素晴らしい番組で、感動しました。(内容は、インターネットで知る事ができます)

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2011年8月、名古屋市で建設会社を営んでいた文吾さん夫妻は、浸水の被害にあった借家を自分たちの手で修繕して移住し、お二人は様々なボランティアに参加。さらに、“色の無くなった街に色を取り戻したい”と考えたお二人は自宅の周りで花の栽培を始め、育てた花は知り合いの神社などに届けて、街が少しでも明るくなるようにと活動しています。

 ところが驚いたことに、翌日、その後藤夫妻が私たちの手伝いに来てくださいました。

 そして私がチェーンソーで虎刈りにした生垣をきれいにカットしてくださいました。

 

 行政の方から、簡易宿泊施設として登録し、活動してみてはどうか。と勧められたそうですが、金を儲けたりするのは嫌だから、このままでいいとのこと。

 日本では経済成長の終わりとともに、個人の社会的孤立が深刻化し、格差社会で分断されている。「個人」がしっかりと独立しつつ、いかにして新たなコミュニティを作っていくかが課題です。阿部勝子さんのは活動は、そのヒントを示していると思うのですが。

ねむの花忌 ~佐藤義則を偲ぶ会~

 6月11日(日)、山形県最上町の本城の共同墓地において、故佐藤義則の偲ぶ会が行われました。当日は、花曇りの中、義則さんの奥様も大阪から駆けつけてくれ、そして親族、友人、関係者など27名が墓前に集まり、故人を偲びました。

 

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 佐藤義則(1934~79 享年54)は、中学校卒業後、農業に従事しながら本城青年学級などでの学びを通しながら、青年団活動に没頭する。青年会誌『あゆみ』や町の連合青年会誌『山脈』などの編集・ガリ版刷りで中心的な役割を果たしながら、自身も精力的に生活を記録していった。その後紆余曲折を経ながら、最上の地で苦闘しながら、現実の百姓の生活に根差した民話・民族研究に没頭。古老から民話伝承や年中行事などを聞き書きし、それらは『ききみみ小国郷のわらべうた』、『羽前・最上 小国郷夜話』、『ききみみ』、『雪むすめのおくりもの』などに結実する。

 この「ねむの花忌」は、昨年6月に、佐藤義則について調査・研究されている千葉県の芦原敏夫さん(最上町出身)と同じく千葉県の八鍬貞一さん(戸沢村出身)の二人が中心となり、「佐藤義則研究会」が発足。その際に、毎年佐藤義則の命日に偲ぶ会を開催すること(=ねむの花忌)と会報誌(=『オイノコ』創刊号)の発行を決めたことによる。ちなみに「ねむの花忌」としたのは、義則が私淑していた須藤勝三の追悼文の中の言葉<合歓の花のようなあえかな人生>(総合藝術誌『場』1979年8月)から命名したもの。   今後、まだ活字化していないガリ版ずりの青年会誌のパソコン収録活字化を進めること。佐藤義則宅の蔵書・資料の整理・記録、そして活用・保存について取り組みを進めることを申し合わせている。

 私自身、不勉強で佐藤義則を論ずることなどできないのですが、最上町連合青年会機関誌『健青』(ガリ版刷り)の活字化のお手伝いをしながら感じた事は、当時の青年たちの社会と現実の生活に誠実に向き合う姿であった。そして墓前での偲ぶ会の後の直会で親族、友人、関係者から、義則への思い出話を通して感じた事は、参会者の多さとともに、彼等と義則との人間関係の濃さであった。現代の人間関係の希薄(化)さと比較する時、当時の青年団活動や生活記録運動の持つ意義を再考する必要があるのではないかと思った。

金華山復興ボランティア 報告

 今年も53日~6日まで、金華山に行ってきました。

 女川港に12時半頃に着き、時間があったので女川駅周辺を散策してきました。駅前商店街は、大賑わいで、店々が観光客でごった返していました。少しずつ復興しているように感じ、うれしく思いました。

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 港から歩いて、商店街の入り口に東北電力女川原子力発電所、地域総合事務所があり、正面玄関の線量計0.048mSv(ミリシーベルト/hを示していました。

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 ところで女川原発は、牡鹿半島にありますが、外から見ることはできません。しかし、海からは見る事ができます。

 13:30発の金華山行きの船に乗り、5分くらいすると女川原発が見えてきました。(船のガラス越しの撮影で画像が良くありませんが)現在は稼働していません。

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今回のボランティアには、「風の旅行社」のツアーで参加してくれた6名と押切珠喜さんが代表を務めるVC(ボランティアセンター)を支援する会から10数名(参加日程に違いがあり)で総勢20名程度の観光復興支援ボランティアでした。

牡鹿半島の先に浮かぶ震源地から一番近い島~!最盛期は年間60万人が訪れたこの地に … 多くの参拝者(観光客)を取り戻そうと … 然も、単なる“物見遊山”ではない … 信仰と自然への畏敬の念を基軸とした“根源的&文化的な観光”を目指す!」(押切さんの言葉)

 今回も私は、参集殿(金華山の宿泊所)客室の準備作業や参拝者の車による送迎、厨房の手伝いなど。そして金華山にいる鹿の自然に取れ落ちた角を利用したお土産造りのために、山に木を伐りに行きました。津波によって跡形もなくなった海沿いの道路あとを10分ほど歩いたら、廃墟になったホテルが見えてきました。ただこのホテルは震災のはるか前に閉鎖されたとか。年間60万人も訪れていたのですから、ホテルも必要だったのですね。

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 この連休中には、6日に初巳大祭があり普段よりはるかに多い参拝者がいました。金華山に住み込んでボランティアを続けておられる三上さんは、当日、自分も参拝者として大祭に参加したそうですが、自分の玉串奉奠の際に、神社で準備していた玉串が足りなくなっていた、とのこと。2011年の初巳大祭の参加者は、三上さん一人だったそうで、三上さんはこの事を「榊の玉串が足りなくなるくらい、参拝者が戻って来た」と心から喜んでおられました。

 年間60万人の時、1日平均で約1650人です。でも、この日私の感覚では、多く見積もって300人くらいでしょうか。やはりまだまだ、と言うのが実情です。でも震災で激減した参拝客が徐々に戻ってきているのも事実、これからも地道な努力によって復興を成し遂げるしかありません。

 

 私は、震災復興と農山村の再生は基本的に同じものだと思っております。関東大震災の時、東京商大(現、一橋大学)の福田徳三は「復興事業の第一は、人間の復興でなければならぬ。人間の復興とは、大災によって破壊せられた生存の機会の復興を意味する」(『復興経済の原理及若干問題』)と言っています。(岡田知弘『震災からの地域再生新日本出版社2012

ところが、上記の三上さん石巻で被災し、実家は壊滅。現在石巻仮設住宅に住んでいます。そして一年のうちほとんどを金華山に住み込んで、自分の作業機械を持ち込み、崩れた建物、石段、道路など、全てにわたって改修作業をしています。なのに、なのにです!!宮城県の役人から、「石巻の住宅に殆ど住んでいないのだから、出ていけ」と言われたそうです。

みなさんはどう思われますか?

 確かに三上さんは、住宅には年間にしても1ヶ月も住んでいません。しかし11か月は、自分の全てを傾けて復興の支援を続けているのです。彼の破壊された生存の機会宮城県は復興してくれたのでしょうか。彼は無私の心で無償の仕事をしているのです。こんな無慈悲な事はありません。人間の言う言葉とは思えません。<三上さんは、震災の前年まで、金華山神社の氏子総代でした。>

 幸いにも、VCを支援する会の山谷君(彼もまた、無私の人です)が、宮城県にかけあってくれて、事なきを得ましたが、このような感覚がまだまだあるということが、大きな問題です。もしかすると他にも同様の問題があると予想できます。ちなみに仮設住宅を違法に利用している事例が全国で百数十件あるそうです。

 

 今回のボランティアでは、益田文和先生と御一緒させていただき、消失の危機にある個人蔵書の問題について、貴重な教えをいただきました。先生の会社「()オープンハウス」のHPをみたら、このオープンハウスは、オフグリッドとか。私のやってみたいことを実践されています。そして「社会の基本的な仕組みを変え、それにとって代わる生き方のデザインに取り掛かる必要があるはずです」と。これは大震災の時に、国民の多くが気付き、考えた事ではなかったでしょうか。

 

 タマちゃん(押切珠喜さん)に感謝です。彼の生き方には、いつもいつも感動です。今回は、偶然にもタマちゃんの四条畷学園のクラスメートが参拝にいらして、当時の学校の様子をうかがうことができ、有意義な時間になりました。

手仕事 てしごと 「豊かさ」ってなんだろう? 5

 ☆結城登美雄さん講演「てしごと ―過去から未来へつなぐ―」
 結城さんは、いつものように優しく軽妙な語り口で、農家の手仕事の歴史やその意義について、わかりやすくそして、若手の報告者の実践を引き合いに出しながら、手仕事を引き継いでいく意味を話してくださいました。講演の中で伸一君に話を振り、こんな話を引き出しました。
 高橋伸一さんが、藁細工を老人に教えてもらいに行ったとき、奥さんのおばあさんに、「なんでこんなもの習いに来るんだ」「こんなもの、100均(100円ショップ)行くと、もっと良い物ある」と言われたそうである。
 みなさんはどう思いますか?
 もしかしてこれに対する答えが、手仕事を引き継いでいく意義を教えてくれるのかも知れません。
 結城さんは、この話に対して、山口弘道(積雪地方農村経済調査所=雪調の初代所長)『雪と生活』(財団法人農林協会1953年)から、次のような話を引用しながら、見事に答えてくれました。少し長くなりますが、お付き合いください。
 かつて私が、雪調所長として在任中のころ、民芸運動、すなわち柳宗悦氏、河合寛次郎氏、浜田庄司氏などが提唱され活動されていた伝統的民衆工芸品の維持発展の運動を、雪国の東北地方に起すべく、右の三氏を煩して実地調査に行ったのであった。あるとき積雪に埋もれた山形県の一農村を訪れ、某農家に休んだことがある。爐には(中略)薪が赫々と燃えていた。そのとき、爐にあたっておられた河井氏が天井を仰いで突然嘆声を発したので、私も驚いて見上げた。そこには刈りとられた稲の束が天井一杯に房々と吊され、まるで藤棚のようであった。そのとき河井氏の言葉はこうであった。「なんという豊かさであろう!」と。私は静かにその言葉を味わった。そして濶然と自分の眼が開けたように感じた。従来、私は雪国の農村の生活の不合理と非衛生的な面のみを見てきて、その住民の不幸に同情し、なんとかしてこの不幸から農村を救わなければならないと考えてきたのであるが、かかる客観的の味方の半面に、農民自身の考え方、すなわち、主観的な面についてあまり考えを及ぼさなかった。否、農民も私と同様に考えているというようにきめていたのである。(中略)何もこれは「稲の天井」だけの問題でなく、農民が自分の手で作ったものを自分の生活の用に供している自給自足の生活の中には、けっして少なからざる農民の愉悦があるのであった。
 これをお読みになって、どう思われますか?山口は、昭和恐慌や度重なる凶作や大地震によって疲弊した農村を目の当たりにして、貧しく非衛生で、東京などに比べたら比較にならないほど遅れた生活をしている可哀想な農民に同情して、救おうとしていたのです。そこで河合の言葉に開眼!百姓の生活にある真の豊かさ、愉悦に気づくのである。
 戦後、雪調を退官した山口は、帰農する。穿った見方をすれば、東京帝国大学出の超エリートである(戦前の帝国大学出は、今の東京大学とは比較にならないほどでした)彼は、普通に考えれば、大学の教官でも大企業でも道はあったけれど、彼の選んだのは「真の豊かさ」を実現するための百姓だった。とも言えそうである。

 実は私は、この山口の『雪と生活』を読んでいましたが、結城さんに指摘されるまで、この事に気づきませんでした。(読めども、読めず あぁ無情=情けない!!)ありがとうございました。   (完)