農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

石巻 雄勝ローズファクトリーガーデン訪問報告

 5月3日、石巻市雄勝ローズファクトリーガーデンを主宰する徳水博志さんを訪ねていきました。

 途中、阿部勝子邸(ボアランティア・センター=VCの基地)に立ち寄ったら、偶然にも益田文和先生がおり、金華山の鹿の角を使っての「土産物つくり」をしておりました。

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 この日は海が荒れて金華山行きのフェリーが欠航とのこと。後でいつもの山谷君、旅の旅行社の竹島さん、最後に押切さんが8名くらいのボランティアの人を連れてやってきました。私は、阿部勝子さんにきな粉餅をごちそうになり、娘さん・お孫さんと若干お話をして、女川に向かいました。女川はゴールデンウイークということもあり、駅前の復興商店街は賑わいを見せていました。

 

 昼食を済ませ、雄勝に向かいました。午後2時前に「ローズファクトリーガーデン」に到着。徳水さんはお話の準備をして待っていてくれました。

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 私が徳水博志さんを訪ねたのは、2012年8月、宮城県気仙沼市での朝日カルチャーセンター主催の集会に参加しました。その時の講演者の中のお一人で、ご自身も被災しながら雄勝小学校での「復興教育」で優れた教育実践をされた報告をしてくださいました。(⑴)それに感動し、なんとかお会いしたいと出向くなどしたのですが、ご病気や会社設立のため、多忙を極めており、機会を得ることができず、この日となりました。
 

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最初に挨拶代わりに、「震災から7年が過ぎて、ボランティア活動の在り方にも大きな変容がある。今、被災地に必要なボランティアはなんなのか。」とお尋ねしました。
それに対して、徳水さんは、自分の実践を示しながら教えてくださいました。
<自らも被災し、義母をなくしながら、教員として「復興教育」を提唱して、実践したこと。一方、奥さんが実家のあった場所に母の供養のため花を植えたこと。そして児童の教育活動=雄勝復興のプランの中に花壇整備が計画され、これがローズファクトリーガーデンを作るきっかけになったこと。関係性を喪失した被災地で、復興に関わることで関係性の再構築しつつ、真の被災地の復興(真の復興とは、人間性の復興である>に取り組んでいること。そして地域を愛する人々が地域の変革の主体者となること。また現在は、ローズファクトリーガーデンを活動拠点として、一般社団法人(非営利)「雄勝花物語」を設立し、イデオロギーよりも雄勝を愛するものを大事にして、彼らをすべて巻き込みながら復興事業を展開していました。(⑵)>

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 お話を伺って、震災からの復興と農山村地域の再生は、基本的の同じであることを確認できました。そして楠本雅弘先生の訴え続けてきた<持続的地域社会を作っていく「地域営農システム」論>と通底していることを確認できたことは、大きな収穫でした。

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⑴ 徳水さんの講演の内容は、大門正克・岡田知弘他編著『生存の東北史』(大月書店 2013年)
⑵ 前掲書。岡田知弘『震災からの地域再生』(新日本出版社 2012年)。福田徳三『復興経済の原理及若干問題』(1924年)。そして、今回のお話のもとになるのが、徳水さんの『震災と向き合う子どもたち』(新日本出版社 2018年)です。

3.11 東日本大震災の風化を防ぐ!  「語り継ぐこと」「語り続けること」の意味

 東日本大震災から7年が過ぎました。本当に早いものです。このブログの最初の記事として「人の記憶は時間とともに薄れ、どんな大きな歴史的な事実も風化していく。これを防ぐためにも私たちには歴史を正しく伝えるとともに、繰り返して語り継ぐ責務があるのだと思う。」と書いた。簡単に「語り継ぐ」と書いたが、このことについて昨年末、1冊の本に出合い、再考させられた。
 昨年末に、大門正克著『語る歴史、聞く歴史』(岩波新書2017/12)を著者からいただいた。

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 本書は「主に明治以降から現在に至る日本の近現代を対象にして、語ること、聞くこと、叙述することの歴史に照準を合わせた本」である。是非ともお勧めしたい本である。
 取り上げられているのは、幕末維新の回顧録、『福翁自伝』、篠田鉱造『百話』、柳田国男瀬川清子民俗学沖縄戦東京大空襲などの戦争体験、植民地からの強制連行、女性の農家や炭鉱労働者の労働や生活の記録などだ。
 新書であること。また歴史と銘打っていることなどから、量は限られマスコミ、インターネットなどメディアへの言及などは割愛されているが、著者のこれまでの問題関心に沿って、わかりやすく整理されている。例えば聞く側の行為としてのask, listen, take というふうに分類している。

 ここではaskと listenについて考えてみたい。話は少し長くなるが、本書の中でも取り上げている大門著『戦争と戦後を生きる』(小学館2010年)に感想を書いた。

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 満州からの引揚者の話の中で、筆者(大門さん)はある女性が引き揚げの途中に暴行されそうになり、その女性が「<商売>の女性に(自分の身代わりを)頼んだ」という話を聞く。しかし「なぜ頼んだのか」は聞けなかった。この点について「聞けなかったのは、研究者としては甘さがあるとの指摘を受けても仕方あるまい」と指摘した。
 その時は、「なぜ<商売>の女性に頼んだのか」は、核心だし、だれもが聞いてほしいことではないのか。そこまで話してくださったのだから、もう一歩踏み込んでも良かったのではなかったか。と思ったからです。
 でも、この本を読み考えてみた。その場で私が聞き取りをしていたら、彼女は、この事実を語らなかったでしょう。大門さんにこの事実を語る前に、新聞記者からも取材を受けていたが、「そんときはあんまり話さなかった」と語っているように、聞き役に徹することなく、何かさらに新しい事実を求めるような下心があるようでは、自分から話すことはなかったでしょう。私たちは、語る人の体験が重ければ重いほどに徹底的に寄り添うことしかできないのだと思う。
 大門さんは、体験を聞く歴史が成立する条件を次のように整理しています。
(1) 語り手と聞き手の信頼関係のあり様
(2) 聞き取りが成り立った条件、場についての自覚
(3) 先入観を捨てて語り手の語りに耳をすます
(4) 語りの意味を考え、聞き取りを叙述してかたちにする

 私にとっては⑴の信頼関係を築けたとしても、⑵から⑷が難しい。
「戦争体験を受け継ぐ、受け渡す」の中で、橋部さんの、聞き手が心がけることは「語り手を誘導することは避けて」、「語り手の<まるごと>の生き様」を聞くこと、という話や広島市立基町高校の取り組みを知り、私としては救われる思いでした。
 高校生たちは被爆者と何度も会い、何度も話を聞き、試行錯誤を繰り返しながら絵を描いていく。そして高校生が「やっぱり、証言者の方はなくなっていくと思うんですけど、その証言者の方の思いをどんどん重ねていったら、証言者以上のその重さが、どんどんどんどん増していくと思うんで、(――そうだよね)はい。だから、(被爆者の方が)いなくなられても、継承していくことは意味があることだと思います」と感想を述べている。(小倉泰嗣「被爆体験をめぐる調査表現とポジショナリティ」2013年)。

 東日本大震災の風化が進んでいることを肌で感じている自分としては、聞き手として心がけることを念頭において、語り手に思いを重ねていくことで「語り継ぐこと」「語り続けること」が可能になるのだと思います。この重要性を忘れずにいたいと思います。直接向き合う聞き取りには、この可能性があるのですね。いや、これしかないのだと思います。

板倉聖宣先生が亡くなりました―合掌

 2月7日、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さん(1930~2018)が87歳で亡くなりました。
 私が板倉先生を知ったのは、川越商業高校で非常勤講師をしていたころ1984(昭和59)年ころ、森下健七郎さんから、その存在を教えていただき、川越女子高での講演会で初めてお話を聞きました。
 山形に戻り、就職が決まり「山形仮説サークル」に参加しながら学ばせていただきました。その頃、理科の授業書だけでなく。社会の科学の授業書も書かれていました。『日本歴史入門』『禁酒法と民主主義』などです。その中でも秀逸なのが『生類憐みの令』でした。でも私は仮説実験授業研究会の会員にはなりませんでした。板倉先生の「ヒューマニズムをもとにした徹底した子供中心主義」という考え方には共感しつつも会員(規則は本当に緩いもので、ほとんど制約されることはありません)になることで、自分が見えなくなるのでは、という不安からでした。

 歴史学を勉強してきた自分としては、『歴史の見方考え方』『日本史再発見 理系の視点から』などを読み、これまでの歴史学を覆してくれるほど刺激的な本でした。しかし残念なことに板倉先生の著作への反応はありませんでした(もしどこかの歴史学会で、批判とか書評などがありましたら、教えてください)。

 板倉先生は民主主義を決して否定はしていませんが、「民主主義は、もっとも恐ろしい奴隷主義になりかねない」ということをくり返し強調していました(牧衷さんも同様)。そして「自分の善意だけを信じて、結果に盲目な人ほど恐ろしい人はいない」とも言います。そして、「自分たちの善意を大切にしながらも、たえずその善意によってしたことの結果を実験的に確かめながら生きることのできる人だけが、今後の世の中を明るくすることができるのではないか」と。そして今後の社会は「自分の判断を仮説とし実験的に確かめつつ生きていくよりほかない」と(『いま、民主主義とは』)。今の日本の政治状況を示しているようで怖いのですが。

 

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牧衷さん(1929~2015)と同様に板倉先生の言葉を大切にしながら、生きていきたいものだとしみじみを思いました。合掌。

地元の宝物 測量遺産 塩野原基線

 昨年末、2冊の著作と2本の論文(冊子)をいただいた。さらに3冊の本を貸していただきました。どれも興味あるものばかりで、今、じっくりと読んでいます。
 その中の1冊を紹介します。
 ※大和工営一等三角点の会『測量会社の登山体験記 山形県一等三角点紀行』2017/5/30 著者発行人 大和工営一等三角点の会 齋藤利夫 非売品)
 皆さんは、<一等三角点>とは何か、知っていますか?
 地図(正確な広大地域を覆うもの)を作成するに際し、現代の航空測量が一般的に行われる以前から使用され,現在も引き続いて利用されている測量方法の一種である三角測量(三角形の一辺の距離と二角の角度を知ることにより、他の二辺の距離を計算で求める方法)を実施したとき、地表に埋定された基準点である。一等三角測量は、まず正確な長さが測定された基線を設けることから始まります。基線は3kmから10kmという直線と平坦な地域が確保できるところを選び、4mから25mの伸縮の少ない正確な物差し(基線尺)を使用して、その長さを慎重に測りました(国土地理院HPより)

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  だそうです。日本の近代化政策の中の一つで、明治政府が正確な地図作成を急ぎ、全国で15の基線が設けられました。その中の一つに山形県新庄市北部に、1894(明治27)年に設置された「塩野原基線」があります。全国に15の基線が設定され、日本の正確な地図つくりに非常に重要な役割を果たしました。これに基づく日本地図は1913(大正2)年に完成しました。ところが、時代はかわり、今ではGPSなどで測量するようになり、ほとんど使われなくなりました。(最新技術での測量の基本になるのが「電子基準点」、実はこれ、新庄の東山の体育館わきの駐車場の端にあります。これも驚き!)

 

  そして現在でも当時と同じように基線の両端が見え、当時と同じように測量できるのは「塩野原基線」唯一だそうです。そんなわけで、2011年に、「測量遺産」に指定され、12月15日に現地で「測量遺産塩野原基線」の標示板の除幕式があったそうです。f:id:zenninnaomote:20180123222438p:plain

  精確な日本地図の作成の基準になった「基線」が日本に唯一、新庄に残っているなんて素敵なことだと思いませんか。そして今は、新庄の東山に「電子基準点」があって伝統が引き継がれている!

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  齋藤さんにいただいたこの本、塩野原基線から始まり、山形県にある21の三角点の登山体験記です。魅力ある文章で、それぞれの三角点の魅力を存分に伝えてくれます。おすすめ本です。但し非売品です。「大和工営」のHPに掲載されています。是非、のぞいてみてください。

 *掲載の写真は、新庄氏のHPより転載。

樹木が何百年も生きられる理由

 山で大木を切るのを初めて見たとき、ただただ圧倒されたものでした。その感覚は今でも変わりません。複雑な感情はあるのですが。また林業は大変危険で重労働でもあるのですが、仕事をしているととても気分がいいのです。不思議な感覚です。精神が浄化されるとでもいうのでしょうか。
 ところで皆さんは、大木を見て、「なんで樹木は何百年も生きられるのだろう?」なんて、考えたことはありませんか?私は自分の住む地域にある古木や、人工林なのに200年もたっている杉林を見に行ったりします。また、屋久島の千年杉のことを考えると、なんか「ありえない話」で、これこそ神の宿る木だから枯れないんだ。などと考えていました。
 ところが先日、この答えを大好きな雑誌『BE-PAL』(12月号 小学館)で知る事ができました。連載記事「ルーラルで行こう!」の稲本正さん「森林×アロマセラピー」のお話からでした。その中で、英国王立植物園のドクター・プランスの言葉を紹介。
「木が100年、200年と生き続けられる理由(中略)は、葉や樹皮に含まれる芳香物質のおかげ。これらの成分には、細菌の増殖を退けるだけでなく、抗酸化作用もある」
 <なるほど!>とガッテンした次第。さらに“宮大工はヒノキのにおいを嗅いでいると風邪をひかない”とか“飛騨の樵は、仕事で肩が凝るとミズメザクラの樹皮をはいで肌に張っている”この木は湿布薬そっくりのにおいがし、成分を分析すると湿布薬の主成分と同じだとのこと。
 これってすごい発見だと思いませんか?そんなの常識だよ!という人はごめんなさい。ヒノキの風呂は気持ちがいいなどとは感じてはいたものの、植物の芳香成分に疲労回復や自律神経を整える効果があるなど、山仕事をf:id:zenninnaomote:20171211232152j:plain

するまではほとんど意識することはありませんでした。アロマセラピーなんて都会のおばさんがやっていること、なんて斜に見ていたのですが、自分は山で木を伐っているだけでアロマセラピーを実践していることに気づかされました。
 本当に山には、私たちの暮らしに必要なものは何でもそろっているのですね。そのためにも、「本当に豊かな森」づくりが必要なのだと思います。

(写真は、クロモジ=黒文字。高級爪楊枝として利用されてきた香木。)

 

~田中正造に生きる~ 小松裕の忘れ物

  10月27日(金)、サークルでIさんより、「小松裕 その田中正造研究と社会的実践から学ぶ」と題してお話をしていただきました。

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 明治時代中期に起きた足尾鉱毒事件の指導者・田中正造研究の第一人者だった小松裕(ひろし)さんの歴史学を考えるシンポジウムが10月1日、早稲田大学で開かれ、これに参加したIさんから資料をいただき、感銘し、小松さんと一緒に学ばれたIさんに小松さんのことを語って貰いたいとお願いしてサークルで報告してもらいました。
 小松さんは、栃木県・足尾銅山鉱毒に対して農民とともに闘った正造研究をはじめ、在日朝鮮人史やハンセン病問題など、熊本を拠点に生涯にわたり「いのちの歴史学」を追求し、『田中正造の近代』(現代企画室、2001)や『「いのち」と帝国日本』(小学館、2009)などにまとめられました。
 Iさん曰く「この2著は(特に後者)を通して、小松は「いのち」の序列化の構造に着目、批判を強めた」と。そして学問研究と不可分に取り組んだのが社会的実践活動で、早稲田の大学院での自治活動、歴史学研究会の科学運動、「自由民権百年全国集会」での事務局での仕事。また、田中正造研究ととどまらず、熊本大学に奉職してからは、在日朝鮮人問題、チッソ水俣病問題、ハンセン氏病などなど……。
 研究者は星の数ほどいるが、研究をもとに実践・活動している研究者をどれほどいるのだろうか。タイトルの『小松裕の忘れ物』(田中正造研究会編 2017/8)で山野幸司さんは
 ……「現在の混迷の時代こそ田中正造の思想を生かそう」と主張する小松裕の声が聞こえてくる。
 「新の文明は 山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 この田中正造の壮絶な生き方に重なり、まるで田中正造がこの現在に生き返ったかのように思えたのであった。溢れんばかりの力強さと、深い眼差しのやさしさを持ち、研究者というだけでなく、地域社会の中でたくさんの人とつながり、生き抜いてきた活動家の小松裕であった。
 と述懐している。東日本大震災以降、産業文明を問い直す動きが高まる中、脱原発運動の先頭にも立ち、足尾と水俣、福島の相似性・共通点を指摘し、それをつないで近現代史を問う提起をしていたが、二年前、熊本大文学部長在職中に六十歳で亡くなりました。
 熊本の地で愛され、早すぎる死を惜しまれた小松裕さん。同郷(尾花沢の鶴巻田生まれ。玉野中、山形南高出身)でもある彼の著作、そして生き方に学び、それを広げていく価値があると思ったところです。  以下、お薦め本

 ※『田中正造 未来を紡ぐ思想人』(岩波現代文庫 2013/7)

  『真の文明は人を殺さず』(小学館2011/9)

東日本大震災を忘れない! ~相馬市視察~

 10月23日(月)に、民生委員の研修で福島県相馬市を訪問した。当日の昼は船越で海鮮丼をいただき、午後から相馬市観光課の職員の案内で震災被害と復興状況の説明を受けた。
 2011年3月11日の大震災では、NHKの報道では9.3メートルの津波に襲われ、相馬の観光産業の柱である「松川浦自然公園」をはじめ、白砂青松の大須海岸など多くの観光資源が壊滅的な被害を受け、これ等の観光資源の復興には、今後数十年を要するであろうということである。死者58名、震災関連死26名、内殉職消防団員10名。

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(松川浦の観光案内所付近から。奥の橋は大須海岸と中州を復興するための工事用の橋)

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(松川浦大橋)
 最も被害の甚大であった原釜の復興した漁業施設をまわり、松川浦大橋を渡り、遠くに金華山を見て、「伝承鎮魂記念館」で、<震災の語り部>さんから、自身の震災体験をうかがった。
  語り部さんは、建設業を営む40代前半の男性。震災の時は、避難を躊躇する奥さんや義理の母を説得し、家族5人、無事であったこと。近所の知り合いに声をかけたが、避難せずに亡くなったこと。自宅は、周りの住宅がほぼ全滅したが、奇跡的に残ったことなどを話された。
 翌日、自分が「何をなすべきか」を自問。市役所に行き、重機でのガレキ撤去の作業を始めたが、原発事故の発生で、市役所の組織が解散された。しかし誰もいないなかで、土建屋消防団でガレキの撤去作業を続けたそうです。放射能の危険性がある中で作業を続けたのは、相馬の地で生かされたいる自分のため。
 また、ボランティア活動を組織し、土日に東京都内で募金活動をし、有償で避難している人にガレキの撤去作業をしたそうです。
 一方、原発事故の放射能の影響を心配し、自身の実家のある秋田に妻と子を避難させたのですが、話し合い、悩みぬいた末に「やはり家族は一緒でなければ」という結論に達し、相馬での生活を選択したとのこと。
 淡々とした話の中に、地獄絵図の中を作業し、家族や地域への愛情を感じ、涙が誘われました。
 最後に、今の相馬で必要なもの(事)をうかがったところ、「若い人、相馬で復興のために働いてくれる人、観光でも何でもいいから相馬を訪れてくれる人が欲しい」との事でした。
 東京オリンピックで多くの労働者が働いていますが、復興半ばの被災地を第一に考えてほしいと感じた次第です。