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農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

東日本大震災と歴史からの学びを考える

震災

    五年前の東日本大震災原発事故そして四月の熊本地震で、改めて歴史を勉強し歴史を記すことの意味を考えさせられた。特に前者は、ショッキングな映像とともに今も脳裏を焼き付いている。あの時、津波原発により、あらゆる人々が自然災害に対しての無力感を感じたであろう。それは日本の社会経済システムの崩壊とともに、人々の生き方・考え方を再考させる契機ともなった。とはいうもののあれほどの大災害でありながら、五年しか経っていないのに被災地への関心は薄れ、熊本地震でも原発事故の反省は生かされていないように思うのだが……。
 震災復興を考えたときに、私は歴史学の言い知れぬ無力感に襲われた。現状への対応力のなさとともに、歴史の事実を伝えることの難しさである。一つの新聞記事を紹介します。
    一九八六年。東北大大学院理学研究科の箕浦幸治元教授(六五)は弘前大時代、仙台平野の地層に砂の層を見つけた。海岸線から約四.五キロまでの地点に分布。貞観津波の運んだ堆積物とみられ、史実を科学的に裏付けた。警告の意を込め研究成果を発表したが、見向きもされなかった。「適当なことを言うな」と土建業者の嫌がらせ電話。メディアも取り上げず、警告は「黙殺」された。
 二〇〇一年。箕浦氏は相馬市でも砂層を発見、津波福島県にも及んだことを明らかにした。学内広報誌で「海岸域開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです」と警鐘を鳴らす。だが政府の中央防災会議は〇六年の報告で、貞観津波を防災対策の検討対象から外し、東京電力津波堆積物の独自調査で、「福島第1原発以南では貞観津波の痕跡はない」と結論付けた。仙台市も地域防災計画では貞観津波は頭にあったというが、再考はしなかった。
 二〇一〇年。産業技術総合研究所が貞観津波級の発生間隔を最長800年と推計した。貞観から約一一〇〇年。いつ来てもおかしくなかった。予言は当たった。
 「この震災を『想定外』とする評は全く当たらない。正当な評価ができなかっただけだ」
 箕浦氏は震災後の論文で指摘している。箕浦氏はことし三月、退官した。心境を聞こうと取材を申し込んだが、受けてもらえなかった。メディアとの関わりは基本的に断っていると聞く。(河北新報:二〇一五年七月一二日日曜日)
    私たち歴史を学び、勉強している者の役割とは、過去の歴史を正しく後世に伝えていく事であろう。戦後の歴史学もあの悲惨な戦争に対する反省から出発したはずである。だがしかし、上記の新聞記事に見る様に、正しく伝えたとしてもそれが〈正当に評価〉されるとは限らないのである。残念ながら歴史に学んでもらえなかったのである。
歴史的事実を知識としてだけでなく、より良く生きていく知恵として伝えるにはどうするのか。
    例えば「釜石の奇跡」と言われて有名になった「津波てんでんこ」の成功例がある。過去にいくども甚大な津波被害に遭ってきた三陸地方に伝わる言葉で「大地震がきたら、一刻も早くめいめいが高台へ逃げろ」が多くの人の命を救った。その背景には、過去の地震津波の際に、家族や知人を助けにいったことで避難が遅れ、多くの死傷者が生まれた事実ともに各小中学校において、積み重ねられてきた週一時間の防災教育と年三回の避難訓練があった。
    これは、〈繰り返しの語り継ぎ〉である。人の記憶は時間とともに薄れ、どんな大きな歴史的な事実も風化していく。これを防ぐためにも私たちには歴史を正しく伝えるとともに、繰り返して語り継ぐ責務があるのだと思う。
    五月の連休中、五日間宮城県金華山での復興ボランティアに参加してきた。そこには十数名の心優しい青年たちがいた。そして自ら被災しながらも震災後からボランティアとして住み込みで活動する七八歳の石巻の老人と岩手の陸前高田出身の二十歳の神官の姿があった。みんな素敵な笑顔で前を向き、自然に対する畏敬の念と謙虚な祈りの心が満ちていた。

 

    *これは、『最上地域史』第三十八号の巻頭言として書いたものである。