農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

歴史に学ぶⅡ 終わりのない旅

 8月21日、むのたけじさんが亡くなった。戦争の廃絶を訴え続けて70有余年。101歳の生涯を終えた。戦時中は従軍記者として、中国やインドネシアの特派員を歴任した。日本が無条件降伏した1945年8月15日、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」として朝日新聞社を退社した。
 潔さとともに自分のやってきたことへの責任の取り方について考えさせられた。彼はその後、秋田の横手に帰り『週刊たいまつ』を創刊。講演などで一貫して反戦・平和を訴え続けた。これが彼の責任の取り方だった。
 責任の取り方ということで、この前、森先生がいらした時に話をした山形県東田川郡旧大和村(現庄内町)の出身の富樫直太郎(1902ー99年)について思い出す。富樫は戦前、借金で傾いた家と大和村の更生運動に全身全霊で取り組んだ。そして満州移民の中堅人物として大和村で揚栄庄内開拓団を組織し、移民を推進し、自分も現地に入植した。
 戦後開拓団が壊滅した後の8月18日の日記に、必死に書きつけた悔恨の文章がある。富樫が「満洲狂い」と言われたころ、大和村小学校校長斉藤正市に「富樫君、馬鹿な真似はやめなさい。移民とは棄民なんだぞ。満洲に若い人を捨てに連れていくのか。……私は教え子を絶対に満洲にはやらんぞ」と言われ、富樫は激怒。反対を押切って満洲へ進んでいく。些かも私心のない、農民の真剣な叫び、涙に動かされての行動ではあったが……。
 富樫はシベリア抑留の後、1946年12月18日に帰国。彼の戦後は、多くの団員と妻子を「殺した」責任にさいなまれ続けた。「私は数多くの仲間、最愛の妻も子も満洲で殺してきました。坊主にでもなって、皆さんの霊を弔いたい」彼は日本農民を救うため善意で進めた満洲移民の悲惨な結果責任を負うことになった。
 その後富樫は、開拓団の引揚者のために、第三の故郷を斡旋する活動に挺身する。自分の故郷に帰っても、分与されるべき土地もなく、村に定住する事は困難であったからである。そして北海道サロベツ幌延地区や、青森の下北半島の六ケ所村などに入植させている。戦後の開拓も苦難の連続であったが、富樫自身、幌延の庄内青年開拓団の責任者として開拓に参加している。(以上、森武麿「満洲移民・帝国の裾野」歴史科学協議会編『歴史が動く時 ―人間とその時代― 』青木書店2001.10.より)
 富樫の戦後は、満洲移民の悲惨な結果に向き合う、終わりのない旅であった。

 *森先生と富樫さんの事を話しながら、「この論文をもとに、ノンフィクションのドキュメンタリー(番組)に、できたらいいですね」と言ったら、来年、NHKで製作する予定がある、とのこと。楽しみにしているところです。
 上記の森論文、歴史の重さを感じ、苦しくて涙する歴史の記録です。もし興味を持たれたら、読んでみてください。