農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

椎名吉次 って、知っていますか? 情報をお持ちの方は、ぜひともお知らせください。

【運命の鐘を造った名工ー椎名吉次】
 皆さんは、豊臣秀吉が亡くなり、関ケ原の戦(一六〇〇年)で徳川家康が勝利し、江戸幕府を開いたことをご存知ですね。しかし豊臣家はまだ滅亡しておらず、大坂で大きな勢力を持っていました。これを恐れた家康は大坂の陣を引き起こし滅亡させます。大坂の陣のきっかけとなったのが「鐘銘事件」です。一六一四 年、秀吉の子豊臣秀頼が家康のすすめで京都の方広寺に大仏を再建した際、同じく鋳造した鐘の銘文中の「国

 

f:id:zenninnaomote:20200426155122j:plain・「君臣豊楽」の字句が、家康の名を分断して徳川氏をのろい、豊臣家の繁栄を祈願していると非難。大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させ、同年十月の大坂冬の陣を引起すことになりました。
 実は、この方広寺の梵鐘を造ったのが椎名伊予(豫)守吉次なのです。

 椎名吉次は近世初期(一七世紀前半)に活躍した鋳物師です。下野国天明(栃木県佐野市)の鋳物師の家に生まれ、慶長一九(一六一四)年に京都方広寺の梵鐘の鋳造に脇棟梁として当たり、伊予守の名を許された。椎名家の由緒書きである「家伝史料」には次のように記されています。
 徳川家康の関東入部に従い、慶長十一(一六〇六)年に三河国(愛知県)より下向、正保三(一六四六)年に病没したということです。しかし、一方で天明(栃木県佐野市)鋳物師のなかにも、椎名姓の鋳物師が多数存在しており、系譜等については今後の検討が必要です。作例は、慶長十九(一六一四)年銘の擬宝珠(江戸城下乗橋)、芝東照宮の銅燈籠、上野の寛永寺の鰐口、同じく清水観音堂の鰐口。久能山東照宮の神廟前の銅燈籠、唐門前の銅燈籠。鹿島神宮の擬宝珠。そして元和七(一六二一)年銘の鰐口(山形県鮭川村庭月八幡神社)まで8例が確認されています。ただし、芝東照宮の銅燈籠は、1945年の東京大空襲の折、焼失しており、現在確認できるのは7例です。

 (台東区教育委員会の伊藤さんに、いろいろと教えていただきました。)