農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

樹木が何百年も生きられる理由

 山で大木を切るのを初めて見たとき、ただただ圧倒されたものでした。その感覚は今でも変わりません。複雑な感情はあるのですが。また林業は大変危険で重労働でもあるのですが、仕事をしているととても気分がいいのです。不思議な感覚です。精神が浄化されるとでもいうのでしょうか。
 ところで皆さんは、大木を見て、「なんで樹木は何百年も生きられるのだろう?」なんて、考えたことはありませんか?私は自分の住む地域にある古木や、人工林なのに200年もたっている杉林を見に行ったりします。また、屋久島の千年杉のことを考えると、なんか「ありえない話」で、これこそ神の宿る木だから枯れないんだ。などと考えていました。
 ところが先日、この答えを大好きな雑誌『BE-PAL』(12月号 小学館)で知る事ができました。連載記事「ルーラルで行こう!」の稲本正さん「森林×アロマセラピー」のお話からでした。その中で、英国王立植物園のドクター・プランスの言葉を紹介。
「木が100年、200年と生き続けられる理由(中略)は、葉や樹皮に含まれる芳香物質のおかげ。これらの成分には、細菌の増殖を退けるだけでなく、抗酸化作用もある」
 <なるほど!>とガッテンした次第。さらに“宮大工はヒノキのにおいを嗅いでいると風邪をひかない”とか“飛騨の樵は、仕事で肩が凝るとミズメザクラの樹皮をはいで肌に張っている”この木は湿布薬そっくりのにおいがし、成分を分析すると湿布薬の主成分と同じだとのこと。
 これってすごい発見だと思いませんか?そんなの常識だよ!という人はごめんなさい。ヒノキの風呂は気持ちがいいなどとは感じてはいたものの、植物の芳香成分に疲労回復や自律神経を整える効果があるなど、山仕事をf:id:zenninnaomote:20171211232152j:plain

するまではほとんど意識することはありませんでした。アロマセラピーなんて都会のおばさんがやっていること、なんて斜に見ていたのですが、自分は山で木を伐っているだけでアロマセラピーを実践していることに気づかされました。
 本当に山には、私たちの暮らしに必要なものは何でもそろっているのですね。そのためにも、「本当に豊かな森」づくりが必要なのだと思います。

(写真は、クロモジ=黒文字。高級爪楊枝として利用されてきた香木。)

 

~田中正造に生きる~ 小松裕の忘れ物

  10月27日(金)、サークルでIさんより、「小松裕 その田中正造研究と社会的実践から学ぶ」と題してお話をしていただきました。

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 明治時代中期に起きた足尾鉱毒事件の指導者・田中正造研究の第一人者だった小松裕(ひろし)さんの歴史学を考えるシンポジウムが10月1日、早稲田大学で開かれ、これに参加したIさんから資料をいただき、感銘し、小松さんと一緒に学ばれたIさんに小松さんのことを語って貰いたいとお願いしてサークルで報告してもらいました。
 小松さんは、栃木県・足尾銅山鉱毒に対して農民とともに闘った正造研究をはじめ、在日朝鮮人史やハンセン病問題など、熊本を拠点に生涯にわたり「いのちの歴史学」を追求し、『田中正造の近代』(現代企画室、2001)や『「いのち」と帝国日本』(小学館、2009)などにまとめられました。
 Iさん曰く「この2著は(特に後者)を通して、小松は「いのち」の序列化の構造に着目、批判を強めた」と。そして学問研究と不可分に取り組んだのが社会的実践活動で、早稲田の大学院での自治活動、歴史学研究会の科学運動、「自由民権百年全国集会」での事務局での仕事。また、田中正造研究ととどまらず、熊本大学に奉職してからは、在日朝鮮人問題、チッソ水俣病問題、ハンセン氏病などなど……。
 研究者は星の数ほどいるが、研究をもとに実践・活動している研究者をどれほどいるのだろうか。タイトルの『小松裕の忘れ物』(田中正造研究会編 2017/8)で山野幸司さんは
 ……「現在の混迷の時代こそ田中正造の思想を生かそう」と主張する小松裕の声が聞こえてくる。
 「新の文明は 山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 この田中正造の壮絶な生き方に重なり、まるで田中正造がこの現在に生き返ったかのように思えたのであった。溢れんばかりの力強さと、深い眼差しのやさしさを持ち、研究者というだけでなく、地域社会の中でたくさんの人とつながり、生き抜いてきた活動家の小松裕であった。
 と述懐している。東日本大震災以降、産業文明を問い直す動きが高まる中、脱原発運動の先頭にも立ち、足尾と水俣、福島の相似性・共通点を指摘し、それをつないで近現代史を問う提起をしていたが、二年前、熊本大文学部長在職中に六十歳で亡くなりました。
 熊本の地で愛され、早すぎる死を惜しまれた小松裕さん。同郷(尾花沢の鶴巻田生まれ。玉野中、山形南高出身)でもある彼の著作、そして生き方に学び、それを広げていく価値があると思ったところです。  以下、お薦め本

 ※『田中正造 未来を紡ぐ思想人』(岩波現代文庫 2013/7)

  『真の文明は人を殺さず』(小学館2011/9)

東日本大震災を忘れない! ~相馬市視察~

 10月23日(月)に、民生委員の研修で福島県相馬市を訪問した。当日の昼は船越で海鮮丼をいただき、午後から相馬市観光課の職員の案内で震災被害と復興状況の説明を受けた。
 2011年3月11日の大震災では、NHKの報道では9.3メートルの津波に襲われ、相馬の観光産業の柱である「松川浦自然公園」をはじめ、白砂青松の大須海岸など多くの観光資源が壊滅的な被害を受け、これ等の観光資源の復興には、今後数十年を要するであろうということである。死者58名、震災関連死26名、内殉職消防団員10名。

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(松川浦の観光案内所付近から。奥の橋は大須海岸と中州を復興するための工事用の橋)

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(松川浦大橋)
 最も被害の甚大であった原釜の復興した漁業施設をまわり、松川浦大橋を渡り、遠くに金華山を見て、「伝承鎮魂記念館」で、<震災の語り部>さんから、自身の震災体験をうかがった。
  語り部さんは、建設業を営む40代前半の男性。震災の時は、避難を躊躇する奥さんや義理の母を説得し、家族5人、無事であったこと。近所の知り合いに声をかけたが、避難せずに亡くなったこと。自宅は、周りの住宅がほぼ全滅したが、奇跡的に残ったことなどを話された。
 翌日、自分が「何をなすべきか」を自問。市役所に行き、重機でのガレキ撤去の作業を始めたが、原発事故の発生で、市役所の組織が解散された。しかし誰もいないなかで、土建屋消防団でガレキの撤去作業を続けたそうです。放射能の危険性がある中で作業を続けたのは、相馬の地で生かされたいる自分のため。
 また、ボランティア活動を組織し、土日に東京都内で募金活動をし、有償で避難している人にガレキの撤去作業をしたそうです。
 一方、原発事故の放射能の影響を心配し、自身の実家のある秋田に妻と子を避難させたのですが、話し合い、悩みぬいた末に「やはり家族は一緒でなければ」という結論に達し、相馬での生活を選択したとのこと。
 淡々とした話の中に、地獄絵図の中を作業し、家族や地域への愛情を感じ、涙が誘われました。
 最後に、今の相馬で必要なもの(事)をうかがったところ、「若い人、相馬で復興のために働いてくれる人、観光でも何でもいいから相馬を訪れてくれる人が欲しい」との事でした。
 東京オリンピックで多くの労働者が働いていますが、復興半ばの被災地を第一に考えてほしいと感じた次第です。

四国・高知への旅 ~もう一つの出会い~

 高知を後にしての帰路、新潟県との県境に位置する富山県下新川郡入善町園家山キャンプ場に一泊した。海に隣接して、海に入る夕日が最高にきれいでした。しかも無料です。私たちがテントを立てている時に、心配して声をかけてくださった方がおりました。何とか設営したのですが、その時、大量のサザエをいただいてしまいました。

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 ありがたくも、恐縮してしまい、コバちゃんと二人で風呂に入りに行ったとき、「これは只ではいただけないね」と話し、お酒を持って挨拶に行きました。そして結局はそのAさんが宿泊しているバンガローに一緒に留めてもらうことになり、夜遅くまで飲みながらお話をしてきました。
三重県津市から、自転車で来ていること。会社を退職後、自転車旅をしていること。新潟の柏崎まで行っての帰りであること。サザエは目の前の海で潜って捕ったものであること。高知の四万十川の近くに、無料のゲストハウスを作り、運営していること。日本ミツバチを飼っていること。 などなど。>
 Aさんの話の中で一貫していたことは、多くの色々な人との付き合いを続けているが、その中に「お金」が介在していないということです。四万十川のゲストハウスの利用料は無料。管理はしていないが、利用者が清掃などを行い維持しているようでした。(ちなみに、その時、Aさんが日本ミツバチから採った蜂蜜をいただきました。)
 今の時代そんな事ができるのか?と疑問にも思ったのですが、考えてみれば石巻の阿部勝子さんも同様の活動をしていらっしゃいます。もしかすると「お金」を介在せずに付き合いを広げることが新しい共同体をつくっていく指針となるのだと確信した所でした。

 やっぱり俺もゲストハウスを作りたい!!!

念願の大崎博澄さん(高知市のたんぽぽ教育研究所)とお会いしてきました!!!

 7月31~8月4日(金)に、コバちゃんと車で四国の高知へ。元高知県教育長で、退職されてから「たんぽぽ教育研究所」を設立され所長をされている大崎博澄さんに会いに行ってきました。往復約2400キロの長旅でした。
 8月1日、祖谷渓を通り、高知市へ。9時に「はりまや橋」近くの四国管財ビル4Fにある「たんぽぽ教育研究所」に、大崎博澄さんを尋ねました。

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※ <コバちゃん撮影の祖谷渓>
今年の3月5日に、山形市で映画『蔦監督』を観ました。翌日、元池田高校野球部の蔦文也監督のお孫さんで、この映画の監督の蔦哲一郎を真室川のロッジにお呼びして、飲みながら一晩語り合いました。彼は、『祖谷物語 おくのひと』という秀作も作られており、四国に行ったら必ず祖谷渓に来てみようと思っていました。
 私たちくらい山奥に住んでいる人間はいない!と自負していたのですが、祖谷渓には負けました。なんでこんなにも山奥に人がすんでいるのか?想像をめぐらしたのですが、この事については別に機会に。

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 さて、たんぽぽ教育研究所(www.tanpopo-k.net)は、不登校をはじめとする教育相談もあり、居場所としてのフリースペースもあり、講演活動・出版活動もあり。教育政策の研究もされるという。長年大崎さんが描いていた夢を実現したものでした。機会がありましたら、是非、訪れてみて下さい。
 私が大崎さんの著作を初めて読んだのが『小(くう)さ愛(かな)さ』(ガリ本図書館)という本でした。この本に感動し、大崎さんの書いたものを探し始め、どの本にも感動し、なんとしても会いたくなったのです。

 大崎さんは2000年4月、時の高知県知事、橋本大二郎の下で、県の教育長に。以後、8年間教育長を務める。
 一貫して、「小さく弱いものを守る教育の実現に精魂込めるも敗北」(自身の言葉)と言うように、不登校問題を追及する鬼となり教育改革に取り組みました。

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 著書:「野の思想史」、「百石町路地裏かなしみ亭」(以上、私家版)。「山畑の四季」(高知新聞社)、「小(くう)さ愛(かな)さ」(ガリ本図書館)、「子どもという希望」(キリン館)、「詩集 人生の扉は一つじゃない」、「生きることの意味」(たんぽぽ研究所)等々、あります。どの著作も人の心の痛みに寄り添い、哀しみをそっと包みこむような、やさしい言葉に心が休まるもので、是非ともお薦めしたいものばかりです。

 2時間余りの短い時間でしたが、ゆっくりとしたお話しぶりから、一つ一つ言葉を選ぶように教育について話してくださいました。そのお話の中には、やはり御自分の二人のお子さんの存在がうかがわれ、心が痛む思いでした。それとともにいじめと不登校に対する不動の覚悟がうかがわれました。
  御話をする中で、少しずつご自分の今の家庭状況など、自分の弱い部分を披歴され、小さく弱い立場の者達へ「共感共苦」しながら寄り添おうとする強い姿勢が印象的でした。
 本当は、昼頃までと思っていたのですが、相談電話への応対や娘さんからの電話などの本来の業務の間に私達と話をして下さっていたので、遠慮したところでした。
 コバちゃん曰く、苦行を乗り越え、悟りを開いた「ブッダ(釈迦)のような人」 言い得て妙。

 なお、「たんぽぽ教育研究所」の入っているビル、四国管財という清掃会社なのですが、これも素晴らしい会社でした。社員さんの挨拶・応対の素晴らしさを実感してきました。ちなみにこの会社の社長さんが、大崎さんを気に入り、会社のビルの1室を提供しているのです。四国管財のHP も見てほしいものです。そして社長の考え方を知るとなお、わかると思います。

報告 新庄でホタルが乱舞!! 指首野川と五十嵐源三郎

 619日(月)に町内の会議に参加した後、先輩に誘われ、近くを流れる指首野川(さすのがわ)にホタルを見に行ったら、12匹、先輩は見たというのですが、私には見つけられませんでした。翌日一人で見に行ったら56匹見る事ができた。一週間後に見に行ったら、数十匹のホタルが飛んでいた。ちょっとした感動でした。人の話によると前日は何百匹もホタルが乱舞していたとのこと。

 このような街中でホタルが見られるという奇跡!これは偏に町内の「千門町蛍の会」(菅久雄会長)が、12年ほど前に組織され、「指首野川を蛍の棲める川にしよう」と地道に活動してきた賜物です。私もこの活動に昨年から参加させていただき、河川清掃や花植えを手伝わせていただいています。<指首野川にホタルが乱舞>これはすごいことです。何年振りなのでしょうか?

 

 「指首野川」というと思い出す人がいます。五十嵐源三郎(幼名、暎一。19252002)さんです。通称「大五さん」。(望んではいませんでしたが、周りの人に推されて)市会議員をされていました。彼が生涯をかけて取り組んだ事、それは一言でいうと、新庄の歴史と文化を守ることでした。具体的には、

 *当時存亡の危機にあった「雪害」(旧積雪地方農村経済調査所、現雪の里情報館)を守ること。平成264月に国指定登録有形文化財への登録。

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 *「隠明寺凧」の復元と保存です。(これは実現!県有形民俗資料文化財

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 *戸沢藩のお城で使われていた「御用堰」(今は下水路に)と石川町の「御機嫌通り」(新しい道路が出来て、昔の雰囲気が亡くなっている)の復元保存。

 *汚水で汚れた「指首野川」の復活。(私のカメラでは、ホタルが写りませんでした)

 五十嵐さんは、昔、川遊びをした指首野川を復活させることを夢見ていました。今年、そこでホタルが乱舞したことは、復活の一里塚になったといえそうです。あの世できっと喜んでいらっしゃると信じます。 

祈り 李政美コンサート in 新庄 2017

 6月27日(火)、庄司さんの所(そば屋)で恒例の李政美さんのコンサートがありました。その透明感のある、のびやかな歌声にいつも癒されます。彼女は、とても歌詞=言葉を大事にされたゐると感じます。一語一語とても大事にされています。それ故なのか、イメージを増幅させ、風景が浮かんできます。トークもそうですが、歌もとてもストイックで、押しつけがなく、私に自然に入ってくるのです。やっぱり涙がこみ上げてきました。

 コンサートの後、懇親会に参加させていただき、ピアノの竹田さん、ギターの矢野さんとも親しく話を聞き、即興の歌声喫茶の雰囲気で、本当に楽しむ事ができました。いつもこのコンサートを企画してくれる多一さん、ありがとう。

 今回の目玉は、李政美さんが、本格的に歌い始めるきっかけとなった山尾三省の「祈り」と「遺言」でした。私の勝手な願いですが、これからもこの歌を歌い続けてほしいです。このような歌こそ、今必要なのだと思います。

 

祈り

 

作詞:山尾三省

作曲:李政美

南無浄瑠璃

海の薬師如来

われらの病んだ心身を 癒したまえ

その深い 青の呼吸で 癒したまえ

 

南無浄瑠璃

山の薬師如来

われらの病んだ欲望を 癒したまえ

その深い 青の呼吸で 癒したまえ

 

南無浄瑠璃

川の薬師如来

われらの病んだ眠りを 癒したまえ

その深い せせらぎの音に やすらかな枕を 戻したまえ

 

南無浄瑠璃

われら人の内なる薬師如来

われらの病んだ科学を 癒したまえ

科学をして すべてのいのちに奉仕する 手だてとなしたまえ

 

南無浄瑠璃

樹木の薬師如来

われらの沈み悲しむ心を 祝わしたまえ

その立ち尽くす 青の姿に

われらもまた静かに 深く立ち尽くすことを 学ばせたまえ

 

(南無浄瑠璃

風の薬師如来

われらの閉じた呼吸を 解き放ちたまえ

その大いなる 青の道すじに 解き放ちたまえ)

 

(南無浄瑠璃

虚空なる薬師如来

われらの怖れ乱れる心を 鎮めたまえ

その限りない 青の透明に 鎮めたまえ)

 

南無浄瑠璃

大地の薬師如来

われらの病んだ文明を 癒したまえ

その深い 青の呼吸の あなたご自身を あらわしたまえ

 

オンコロロ センダリマトウギ ソワカ

 

※アルバム「わたしはうたう」/アルバム「李政美LIVE2011―いのちの讃歌」所収

 

 

山尾三省氏の「遺言」より引用)

 まず第一の遺言は、ぼくの生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、却初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。

 これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやも知れぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。

 

 第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。

 

 遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。

 南無浄瑠璃光・われら人の内なる薬師如来

 われらの日本国憲法の第九条をして、世界のすべての国々の憲法第九条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。