「農村と農政を考える楠本ゼミ」参加記 2
<党派性の克服>
先生は、一橋大学で永原慶二先生、佐々木潤之介先生、古島敏雄先生のもとで歴史学を学ばれ、戦前マルクス主義の最高の到達点である講座派の理論を学ばれた(戦前に、「日本資本主義論争」があり、講座派=共産党の理論的シンパと労農派=社会党左派の論争)。特に永原ゼミでは伝統の農村調査で鍛えられ、その後の先生の調査研究のベースとなりました。その後農林漁業金融公庫の調査部に就職。農村現場での調査・研究の中で、戦前農政の担当者・当事者である石黒忠篤、小平権一らの農政史研究することになり、視野を広げられた。
ところで楠本先生が学ばれた先生方は講座派に属します。当時は研究者の中にも「講座派だ、労農派だ」というようなレッテル貼りがありました。*1しかし楠本先生は、講座派の中でも見解は多様で、永原先生と労農派の大内力先生との類似性を指摘します。これなどは初めてうかがうことで、自分の不勉強を自覚するとともに、楠本先生の見識の深さに驚かされます。そしてこの近代史に関わる論争を「論争のための論争」をくり返してきた。政党の介入、特にコミンテルンの影響などで学問もゆがめられた。しかし徹底的に資料を調べ、論理を構成して、相手を論破する。自分がいかに説得力を持った論証展開するかというので、学問は進歩した。と整理します。
ただ先生の話を伺っていると、学部1年の夏に調査し、2年で学生研究誌『一橋』に応募し、入選した「農業における階層分化と共同化」という最初の論文。栗原百寿『農業危機の成立と発展』を台本にして書いたという卒論「寄生地主制下の小農経営に関する試論」からもわかるように、農業の共同経営とか、小作農民の暮らしといった農村社会の基底のところに視点があり、それを追求し続けてきた。だからこそ党派性に左右されることなく、本当に貴重な研究をつづけられ、さらに貴重な史資料の編纂を成し遂げることができたのだと思います。
*1 私も森武麿先生の研究会で勉強させていただいている時に、「俺、大島清先生のゼミに参加させてもらっている」と言ったら、仲間に「おまえは節操がない」と非難されました。(大島先生は労農派ですが、栗原百寿の最大の理解者で、栗原が49年にレッドパージで困窮し、さらに当時出した栗原理論を共産党は彼が死ぬまで非難・罵倒し、日の目を見たのは死後である。この間、大島は栗原家の最大の援助者でした。)