農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

東日本大震災を忘れない! ~相馬市視察~

 10月23日(月)に、民生委員の研修で福島県相馬市を訪問した。当日の昼は船越で海鮮丼をいただき、午後から相馬市観光課の職員の案内で震災被害と復興状況の説明を受けた。
 2011年3月11日の大震災では、NHKの報道では9.3メートルの津波に襲われ、相馬の観光産業の柱である「松川浦自然公園」をはじめ、白砂青松の大須海岸など多くの観光資源が壊滅的な被害を受け、これ等の観光資源の復興には、今後数十年を要するであろうということである。死者58名、震災関連死26名、内殉職消防団員10名。

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(松川浦の観光案内所付近から。奥の橋は大須海岸と中州を復興するための工事用の橋)

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(松川浦大橋)
 最も被害の甚大であった原釜の復興した漁業施設をまわり、松川浦大橋を渡り、遠くに金華山を見て、「伝承鎮魂記念館」で、<震災の語り部>さんから、自身の震災体験をうかがった。
  語り部さんは、建設業を営む40代前半の男性。震災の時は、避難を躊躇する奥さんや義理の母を説得し、家族5人、無事であったこと。近所の知り合いに声をかけたが、避難せずに亡くなったこと。自宅は、周りの住宅がほぼ全滅したが、奇跡的に残ったことなどを話された。
 翌日、自分が「何をなすべきか」を自問。市役所に行き、重機でのガレキ撤去の作業を始めたが、原発事故の発生で、市役所の組織が解散された。しかし誰もいないなかで、土建屋消防団でガレキの撤去作業を続けたそうです。放射能の危険性がある中で作業を続けたのは、相馬の地で生かされたいる自分のため。
 また、ボランティア活動を組織し、土日に東京都内で募金活動をし、有償で避難している人にガレキの撤去作業をしたそうです。
 一方、原発事故の放射能の影響を心配し、自身の実家のある秋田に妻と子を避難させたのですが、話し合い、悩みぬいた末に「やはり家族は一緒でなければ」という結論に達し、相馬での生活を選択したとのこと。
 淡々とした話の中に、地獄絵図の中を作業し、家族や地域への愛情を感じ、涙が誘われました。
 最後に、今の相馬で必要なもの(事)をうかがったところ、「若い人、相馬で復興のために働いてくれる人、観光でも何でもいいから相馬を訪れてくれる人が欲しい」との事でした。
 東京オリンピックで多くの労働者が働いていますが、復興半ばの被災地を第一に考えてほしいと感じた次第です。