農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

世界に一つだけの花

新年あけましておめでとうございます。

 昨年末、SMAPが解散しました。彼等にそれ程の関心を持ってはいませんが、ずぅーっと気になっている歌がありました。それが「世界に一つだけの花」です。曲もいいし、歌詞もよく読んでみると含蓄のある、とても素敵なものですね。

 それで少しだけ調べてみました。作詞・作曲が槇原敬之という人。誰でも知っているのでしょうね。

 彼がこの歌を作る動機になったのが、<本曲を作る3年前の1999年に覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕されたことが自分を見つめ直す機会になった。その中で彼は仏教と出会い、従来の私小説的な作風とは異なる人生をテーマとする作品を手がけるようになり、その成果>だそうです。また<「ナンバーワンではなくオンリーワン」という主題は、「天上天下唯我独尊」という仏教の教えが念頭にあった。『仏説阿弥陀経』の「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という一節が元になった>とも語っています。(Wikipediaより)

 ただ、私がこの曲をはじめて聞いた時、すぐに思い出しました言葉があります。それは「薔薇二本、一本は花大にして、一本は小、大大をほこらず、小小をはじず、力の限り咲けるがうつくし」です。どうです?なんか似ていませんか?

 私が初めてこの言葉を知ったのは、NHK名古屋放送局1997年制作の「名古屋お金物語2」で、塾の講師役をやっていた矢崎滋が語った言葉だったと思います。そしてこの言葉を言ったのは、四条畷学園の山本正次先生が尊敬していた芦田恵之助さんです。

 芦田先生は、この言葉の後に「学校教育を受けたがために、己の大をほこる子が出来たり、己の小をはじる子が出来ているかと思います。力の限り咲いたその花が、よし大であっても、それをほこるべきことでも、はずべきことでもありません。力の限りに咲いたというところに、自分は満足すべきだと思います。  心なき人は、花の大小を比較してその大をたっとび、その小をいやしむきらいがあります。この考え方が、うつくしい教育をゆがめている」と言っています。(『恵雨自伝』下258頁 実践社1972年)

 心なき人が、先生や親でないことを願っています。

 週1回、ボランティアをさせてもらっている障碍者施設「すぎのこハウス」の人達を見ていて、それぞれに輝いていると実感します。それぞれにうつくしく咲いています。その陰に、職員の献身的な努力を感じます。とっても居心地がいいのです。だからみんな笑顔です。

 山仕事に行っても、すてきな野草がたくさん咲いています。ただ私は花の名前、木・山菜・キノコの名前、ほとんどわからず、「あっ、あのはな」でおわりです。

 あぁ、無情!!!

はちべえの森 「ものみる」完成!!!

 12月24日(土)に、はちべえの森に、「ものみる」が完成しました。

 山形県のみどり環境公募事業を活用させてもらい、3年前から山を整備し、オリエンテーリングの道を作り、昨年は山小屋「とらいあん」を、そして今年は山やその周辺を一望できる「ものみる」を完成させました。ここを起点にして来年はさらに子供たちは勿論、地区の人達の憩いの場になればと思っています。

 <手前が「とらいあん」(煙突の煙がまたいい!!)後ろにちょっと見えるのが「ものみる」>

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<これが「ものみる」土台の木は栗の木を焼いて利用したもの。どうです?立派でしょう!! Y口君はシャイで後ろを向いてしまいました。>

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<雨の日は、屋内から、天気の良い日はベランダで最高の景色を堪能します!>

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 その日は、薪割をし、夜は「ものみる」完成祝賀会を、K司くん、Y口くん、K一さんと盛大に執り行いました。数十年前に少年だった男たちの夢の一つが実現した、うれしい、そして楽しい夜(クリスマスイブではなく)なりました。

 あぁ、よか酒!!!

「楠本先生を囲む会」 ~集落営農は地域づくり~

 11月19日(土)、雪の里情報館において「楠本雅弘先生を囲む会」を開きました。
 午前9時から、12時までの短時間ではありましたが、参加者全員が先生と昼食をともにし、話が尽きませんでした。
 先生からは、先生が監修した『集落営農支援シリーズ 地域再生編』の中から先進事例を選択して紹介していただき(盛岡 広島 島根)、解説していただきました。

 次に、事例発表にうつり、事例をもとに話し合いをしました。
 まず最上地域で唯一の集落営農組織である、「ひまわり農場」の現状と課題について、代表理事のTKさんより報告してもらいました。この報告を聞き、現在のこの地域の抱える問題が凝縮しているように感じました。
 例えば経営面積は、平成16年(2004)で66ha。平成28年(2016)では176haに増大している。これは何を意味しているか。「登記上は約1万筆以上」つまり小面積の耕地である。「作業受託を行っている圃場はすべて基盤整備されていない」つまり山間地の狭小の耕地である。「作業委託者は100人ほど」これも同様である。
山間農村の抱える課題が浮き彫りにされている。転作地を大豆畑にし、耕作放棄地の増大に対応し受託地を増やしてきた。しかし「1圃場あたり10㏊以下が多く、この条件下では限界に来ているが、来年度の新規依頼もすでにきている状況で、どのように受け入れていくかが課題」というように、基盤整備がされた大面積の耕地とちがって、機械化による省力化にも限界がある。このような行政が対処すべきはずの問題を、ひまわり農場は引き受けているのである。
また、役員5人、社員8人体制(その他、4~5人のピンチヒッターがいる)で事業を運営しているが、社員のうち3人は12~3月に町の除雪オペレーターをしており、通年での仕事の確保が課題である。
しかしながら、平成6年の結成以来、紆余曲折を経ながらも事業の拡大、多角化(育苗・ミニトマト・ほうれん草)をはかりながら、成長している。集落営農の課題の一つでもある<世代交代>もかなり進んでいる(20~30代が6人)ようである。
集落営農は、地域住民の共同活動を結集した新しい共同経営体である。

続いてKSさんから30年以上続いている「F小学校と世田谷区の小学校との交流事業」についての事例発表があり、年と農村の交流の大きな可能性について話し合われた。
最上地域の持つ豊かな自然環境・食べ物が大きな教育効果を持つこと。つまりこの地域の良さを都市住民に発信するとともに、地域の子供たちが地域の宝を再認識することである。しかしながら、90万人の世田谷区と6000人のF町。一つの小学校では世田谷区の要望(現在世田谷の2小学校との交流であるが、他の小学校も交流を希望している)に応えられなくなっている。この事業を最上地域で拡大することで、教育効果はもとより、経済効果も拡大するものと思う。

押切珠喜さんを囲む会 和やかな 心温まるひと時でした

12~13日、押切さんを囲む会を開催しました。

初日は、まず「Ⅰ四条畷学園での仮説実験授業」と題して話してもらいましたが、前段として、Kバちゃんから「ものとその重さ」の授業のさわりを授業してもらい、当時の授業を再現してもらいました。

 次に、参加者の「資料発表」として、H君より「シャルロット・ペリアンの寝椅子の復元~ の進捗状況」について話してもらいました。Kバちゃんから30年以上続いている「F小学校と世田谷の小学校との交流事業」について。私から「山仕事・山守について」

  *ペリアンは今、世界遺産に登録が決まった国立西洋美術館の設計者のル・コルビ

   ジェと一緒に「シェーズ・ロング」(今でも購入できます)という寝椅子を設

   計、製作した人です。

 そして押切さんから「Ⅱ四条畷の教員」についてと題して、学校行事を通しての先生方の児童・生徒への支援の実際について話していただきました。押切さんの驚異的な記憶力から、当時の渡辺先生たちの熱く理想に燃える教員の姿が彷彿させられました。

 ナイターは、今年の新酒のドブロク!に新米を飲食しながら、語り合いました。

 2日目は、「Ⅲ 震災復興ボランティア」について。震災から5年、被災者から「もう来なくてもいいよ、と言われるまで続ける!」という押切さんの活動を紹介して貰いました。経済的にも大変なのですが、やり続けるパワーと信念! 厳しい状況になったときに、娘さんから「うちのモットーは、他人のために、尽くすことでしょう」と言われた。こんな家庭のバックアップがある事も押切さんを支えているのだと、涙を流しながら聞きました。

 会の様子について、以下、Oちゃんからまとめてもらいました。感謝!!

   <押切さんの会で印象に残った言葉を書き出してみました。>

・「できない」という発想で物事(社会)を見るのではなく、「どうやったらできるか」 という視点でアプローチすることをいつも考えている。
 ⇒プロセスを大切にする仮説実験授業を受けつづけたおかげで、「考えるクセ」を
  身に付けることができた。(賢い小学生からしたら、かったるく見えた仮説のプ
ロセスも、それにはそれ相応の意味があった。多くの知識を身に付けるより、
大切な「考え方」を身に付けることができた。)
 ⇒四条畷学園の小学校では、一人一人を大切にする「待つ教育」も体験した。
  その子が自力でクリアーするまで、下手に「助け船」は出さない。(その時は
  押切さん自身、助け舟は・・・と思ったが、今になってみるとあの体験は貴重。)
・人間は持たない方が人のためにできる。 <東日本大震災の被災者を見ると、店を
すべて失った自転車屋さんは、ただ(無料)で修理をしていた。半分失った人は、
半額の値段で修理をしていた。>
・「当たり前を疑う」ことの大切さも、四条畷小の行事から学んだ。
 ⇒運動会の赤白に替わる「斬新」な組名<インディアンと騎兵隊>、球技大会に「パ
チンコ」を入れてみたり。
・社会が安定していているならば、「効率」を求めてもいい。ただし、ボランティア
 として被災地での活動をする場合は、非常時であることが多く、「効率」を求めて
 はいけない時が多い。
一見「非効率的」だとしても、善意の嵐が吹きまくるような混乱した「現場」では
「効率」について議論するより、「動き出す」ことに価値がある。
⇒また、「嵐のような善意」を差配できる人、組織、しくみが必要になってくる。
 差配まで行かなくても、「話を聞く」人がいるだけでも、その場の空気が変わる。
・行政が求めるもの(コト)は、ハードルが高いケースがある。そのため、「越えら
 れない」としり込みして、引いてしまう人が多いけれども、肝心なことは「反対側
 に行く」こと。だったら、越えようなんて考えずに、「高いハードルの下をくぐる」
 という発想の切り替え。(如何にも高いハードルを越えるのに苦労した・・・とい
 うアピールしつつ・・・)
・みんなが自分にできる事、好きなことを持ち寄ったら、それだけでなんとなくうま
く回りだすことがある。⇒過去の自分の成果を語ってもダメ
・目の前にいる人が、「できなくて困っている」状況があれば、そのできない状況を
否定しても何も生み出すことは出来ない。

奥津の感想
いい会ありがとうございました。二日目の押切さんのボランティアの話は、組織論としてもとても示唆に富んでいるのと思いました。
若い市役所の方もいらしていて、「暮らしに根差した発信」に創意工夫しているこ
とも感心しました。

「俺は、木を殺している」<山が哭いている>

 先日(10月20日)、北桜林業の「芋煮会」がありました。私たち新入りの3人と、これまで林業に従事されてきた先輩方との顔合わせをして、懇親を深めてきました。社長を含め、先輩方からのアドバイスは、異口同音「命にかかわる危険な仕事だから、伐採のルールを守り、安全に仕事を進めてほしい」というものでした。そして「俺は、これを守っていないときは、厳しく𠮟る!」という先輩がいました。
 私は、退職をして<アルバイト>的な気持ちがあったと思います。本業であろうが、アルバイトであろうが、仕事は命と隣り合わせ。甘い気持ちを打ちのめされた気分でした。
 そして、話が進む中で、先輩が伐採している時の自分の気持を「俺は、木を殺している」と表現されました。「何十年、何百年かかって育った木を、俺は5分もかからずに切り倒している」とも。ここに、山や木への感謝と謙虚な心とがにじみ出ています。
山が豊かだからこそ、豊かな農業が成り立っているし、魚付き林の話をするまでもなく豊かな漁業を可能にしている。もう一度、先人たちの教えを学びなおす必要があるのではないか。

一方で、10月6日に、赤倉の山奥に仕事に行った帰りに「白川ダム」の工事現場を見てきた。ただただ唖然として、呆然として立ち尽くすばかりだった。ほんの少し上流の砂防ダムと見比べ、心に浮かんだのは「山が哭いている」だった。ダムの建設の是非を言っているのではない。ダムの必要性を否定するものではないが、ダムがつくられるときには、どこの山もここと同じなのだと確信した。無告の山や木の慟哭が聞えた。

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山は命のみなもと

 楠本雅弘先生が『集落営農』(2003年 農文協)の中でこんなことを紹介している。

 「戦前の農林省では、石黒が農政課長になって以来、将来の次官・局長となるべき幹部候補として採用した事務官を、入省後二,三年目の若いうちに地方営林局へ配属させるのを慣例とした」その理由を石黒は「日本の山村では、一番下に町があり、その上に村があり、部落があり、それから3軒家、一軒家と川上へつながっている。(中略)もし一番山奥の一軒が離村すると、次の三軒家も崩れ、みんな都会へ出て行ってしまう。(中略)諸君を営林局へ行かせるのは、植林の仕方を勉強させる為ではない。国有林を将来にわたって守り育てるために、一軒家の奥にもう一軒、どうやって人間を定住させられるかを現場で研究させるためだ」(「石黒忠篤が説く山奥の一軒家の意味」)

 身近なところでは、柴田栄(戦後、第三代の林野庁長官、参議院議員)は真室川営林署に勤務し、及位村の農村更生計画を推進し、成功に導いている。

 山を守っているから下流の田畑が守られ、最下流の市街地の人々の生活が守られているのである。これは最近の災害を見ても明らかであろう。小規模の過疎集落や小規模農地は生産効率が劣る。より下流の大規模集落へ統合させ、そこに予算を投入しようーこんな現在の農政とは、まさに正反対である。

 これと全く同じ話を牧衷さん(もと岩波映画プロデューサー、シナリオライター、哲学者)に聞きました。

 <杉の伐倒作業 見事な匠の技 感動ものです> 

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私は9月から、北桜林業というところで週3回ほど、お世話になりながら、山の勉強をさせてもらっています。これから少しずつ紹介していきますが、今実感していることは、「山の豊かさ」です。まだまだ慣れないの体力的にきついのですが、まず山の木々に圧倒されます。山の息吹に心が洗われます。山の恵みを実感します。

 ぜひぜひとも山に慣れ親しんでもらいたいです。「山は命のみなもと」を実感できると思います。

※ 石黒忠篤(1884~1960):「農政の神様」と呼ばれた戦前のカリスマ官僚、農本主義農政の推進者。農政課長、農務局長、次官、農林大臣を歴任。農山村経済更生計画(戦前の農村再生策)を推進した。