農山村地域経済研究所 新庄支所から

豊かな自然と宝物がいっぱいの農山漁村が、全国各地にあります。この村々を将来の世代に残そうと、一年の半分以上を農村行脚しながら、村づくりをサポートする楠本雅弘という先生がいます。これは先生の応援ブログです。

森武麿「戦前農村経済更生から現代農村再生へ」

 ゆかいな勉強会の特別企画として、8月4日(木)、市民プラザで私の恩師である、森先生をお迎えして、上記のテーマでミニ(?大)講演をしていただきました。教員、百姓、花屋、市役所職員など多彩なメンバーが集まりました。
 先生も1時間の予定でしたが、A4版12ページにわたるレジュメを準備され、会場を居酒屋に移して、さらに2時間にわたって、熱弁をふるわれました。退官されてもまだまだ若い70歳。
 【講演内容】
 戦前の時代状況と現代の状況が酷似していることを踏まえ、戦前の農村の立て直しに学びながら、現代農村をいかにして再生(立て直し)していくかについて、お話をいただきました。
 講演内容が濃く、レジュメも膨大なので、まとめの部分を紹介します。

3 これからの展望―現代農村再生へ―
 戦前農村再生の歴史的経験を踏まえて、現代の地方疲弊・農業衰退に対して農村再生はいかにあるべきかについて簡単の展望しておく。現状は、近年の研究史を紹介。
 「農村を滅ぼして栄えた国はない」(農林官僚・農業経済学者 小倉武一
 ⑴ 戦前農村更生の歴史から何を学ぶか
  ① 全国農村経済更生の特徴―上からの農村再生計画(政府→道府県→市町村→農家) ヒトの重視(農村中堅人物養成、農村中心人物) 産業組合拡充による農村の組織化(農事実行組合の包摂) 「むら」の活用(部落の隣保共助) 精神主義(報徳思想)
   ⇒ 国家総動員型農村再生
  ② 山形県農村更生の特徴―農村更生より満洲移民、東北振興計画に傾斜=外発型  開発、農村再生は工業化(国防産業)に従属(高度成長の先駆であり原型)
   ⇒ 満洲移民、外発型開発、国防型農村再生
  ③ 最上郡・新庄(昭和大凶作の最激甚地帯)の農村更生―<例>鮭川村経済更生運動:上からの計画に村民が無関心、補助金獲得の手段。産業組合拡充で在村商人の没落。雪害運動保守政党議員(松岡俊三)の国会活動、義務教育費国庫負担補助金支給。戦後1951年「雪寒法」として結実。戦後保守党の地方利益政策の源流。朝鮮移民・植林事業として植民地支配
⇒ 政府補助金獲得、国内矛盾の対外転嫁
◎ 戦前農村更生から学ぶこと=自力更生の勤労主義 全村民の共同による農村再生(集落=コミュニティの強靭性) 協同組合主義(ただし上からの限界を克服すること、村社会でなくこの自立を守る)
◎ 戦前農村更生から克服すべき事=上から(国家主導)外から(開発工業化)の農村更生つまり国家総動員型農村更生、外発型開発=国防型農村更生、国内農村矛盾の国外転嫁(満洲・朝鮮移民)の克服農本主義(農民以外の他の階級との連帯否定、都市住民・商人との連帯欠如)の克服
 ⑵ 現代農村再生にむけて
  ・保母武彦『日本の農山村をどう再生するか』岩波現代文庫、2013
   ⇒「外発型発展論」の失敗から内発的発展(論)へ
   ① 環境・生態系の保全及び社会の維持可能な発展を政策の枠組みとしつつ、人権の擁護、人間の発達、生活の質的向上を図る地域発展を目標とする。
   ② 地域にある資源、技術、産業、人材、文化、ネットワークなどハードとソフトの資源を活用し、地域経済振興においては、複合経済と多種の職業構成を重視し、域内の産業連関を拡充する発展方式。
   ③ 地域の自律的な意思に基づく政策形成を行う。住民参加、分権と住民自治の徹底による地方自治の確立を重視する。
 *他、小田切徳美『農山村は消滅しない』岩波新書、2014.。増田レポート批判。広井良典『コミュニティを問い直す』ちくま新書、2009。ほか。ひたすら拡大・成長を目指すという方向から発想の転換。地域に根差した豊かさを。

まとめ
 戦前農村更生は、上からの農村再生(国家主導型)、外からの農村再生(外発型)、この弱さが農民を戦争とファシズムの道に落とし込んだ。現代の農村再生は下からの農村再生(自治型)、家からの農村再生(内発型)が求められる。とくに戦前の農本主義を克服し【閉じた共同体から開かれた共同体へ】、都市型住民の田園回帰による都市と農村の共生社会の建設が目標となる。

ゆかいな勉強会 7月 例会報告

期日:7月28日 午後6:00~

場所:街路樹

参加者:K一さん Kバちゃん Kひろくん Sさん Kべさん Oさん シーマ

 

Kバちゃんより 23日から行われたF小学校と世田谷区の小学校との交流会の報告。

 約30年にわたり、続けられてきた交流事業。準備は非常に大変だそうですが、2泊3日の事業を終えて、帰っていく世田谷の子供も見送るF小の子供たちも涙を流して、お別れする姿や都会の親たちとの交流の中で、「出来るなら移住したい」とまで言わせる、この事業は、地域間交流のとても素敵な成功例だと思います。地域おこしの一つのヒントを与えてくれています。

 ただ、世田谷区内にはまだ、交流したいという小学校がたくさんあるそうですが、小学校が1つのF町と90万人の世田谷区です。この取り組みを新庄・最上に広げられたら、面白くなるかもしれません。

 説明文『生き物は円柱形』の授業記録。⇒ 子供たちの感想を見ると、授業が進むにしたがって、素晴らしい感想が増え、評価が急激に高まっていることが数値からも乾燥の内容からもわかります。楽しく文章を読み進める中で、みんなで考えを出し合う中で自分の素晴らしさと仲間の素晴らしさを発見していく様子がわかります。  Kバちゃんのすごさを改めて実感した次第です。

 Kひろくん 「シャルロット・ペリアンの寝椅子 再生プロジェクト」の中間報告とO切くんの「遊び工房プロジェクト」(自然体験、環境学習をしたり、モノづくり体験を提供しながら、この地で豊かに暮らす方法を提案していく活動をしている)の取り組みについて説明。

<ダレデモドーム 手作りの地域防災>の活動を計画。2017年5~6月市のエコロジーガーデンで ドーム型テントを作りながら、防災意識を高めていく。 これも素敵な取り組みです。是非とも行政の殻を破って、みんなで楽しくやっていくことが、本当の地域づくりにつながっていくのだと思いました。

K一さん 大豆畑トラスト主催「草取りツアー」(8/6~7)の説明。その中に「はちべえの森 たんけんオリエンテーリング」(7日)もあります。

シーマ  「コントロールされるメディア あるブログ(地給知足)より」⇒7月4日(月)のNHKのテレビ。今週の予定で10日(日)には、「世界遺産委員会始まる」と「大相撲名古屋場所 初日」とあるだけ。もっと重要な事=「参議院議員選挙投票日」はありませんでした。また、熊本地震でもNHKは、震度図には、鹿児島県がカットされています。さらに愛媛県は出て来るのですが、震度の度数がありません。どちらも震度5はあったのです。鹿児島の川内原発、愛媛の伊方原発は無視されました。そして川内原発は自動停止しませんでした。 皆さんはどう思いますか?

 私の恩師「森武麿先生を囲む会」(8月4日) 「押切さんを囲む会」について。

炭焼き と 李政美コンサート

6月27~30日に、「神室炭焼きクラブ」で本年度第1回の炭焼きが新庄の市民スキー場脇で行われました。今年度から参加させていただきました。念願かなって、素晴らしい体験ができました。先人の知恵と技が満載でした。これを出来るだけ受け継ぎたいものだと思いました。11月の第2回の炭焼きでは、是非ビデオ撮影をしておきます。

 f:id:zenninnaomote:20160701010137j:plain炎の美しさとともに、先輩たちとのおしゃべりの中で、炭焼きの道具=工具の多様さ、地域による違いなど、炭焼きの奥深さを実感。皆さんと一緒に食べる昼食の美味しさは格別でした。

 

 27日(日)の午後7時から、そば屋「庄司」さんのところで、毎年恒例となった<李政美:イ・ジョンミ>さんのコンサートがありました。T一さん、毎回ありがとうございます。  毎回のことながら、李さんの世界に引き込まれ、心が満腹になる感じです。心に響く、深く透明な声ではあるのですが、良い意味で圧倒的な歌唱力に「うた」を載せ、聴く人の心に届けてくれていました。

f:id:zenninnaomote:20160701010624j:plain

李さんのうたの強さ(李さんのお人柄なのか、とても抑制されたなかに燃え上がる炎ようなもの)を感じました。良い歌(歌手・歌詞・曲)は、聴く人を選びません。

 

 

 

 

 

 

ゆかいな勉強会 ㋅ 例会報告

本日(24日)開催、例会の報告です。

・K宏くんより、「シャルロット・ペリアンの<寝椅子>に学ぶ民芸品と手仕事」について これは県のNPO活動促進補助事業の事業計画です。ル・コルビジェなどと作った「シェーズロング」を元に、農村工業の1案としてペリアンが昭和15年に設計し、農民に作らせたという、貴重な新庄の遺産です。(台座は、林二郎作製。台座に敷く、クッションを農民に作らせた。素材は、ワングル)これを復刻しようとする意欲的な試み。みんなで応援したいと思います。

・K司くんより、「はちべえの森」の植林完了の報告と今後の計画について、

 今後の計画:今年度は、はちべえの森に「Forestage(フォレスト+ステージの造語)ものみる」という、ウッドデッキつきの小屋を、県のみどり環境税の補助を受けながら、作製する予定。(なお、同時に申請した「飛田チカイツリー やぐらる」は却下されたそうです)  次第に夢が実現していく、昔のガキ大将の遊び場。子どもも大人も楽しめる森です。  是非とも遊びに来てください。  なお、8月7日には、横浜の子供たちがオリエンテーリングの予定です。

・K一さより、「今和次郎コレクションレター第19号」と懐かしい長岡顕(明大名誉教授、経済地理学)さんからの手紙の紹介。

 工学院大学図書館の「レター」、今も、というより今だからこそ生きている今和次郎の視点は、今でも素晴らしい輝きを持っている。今の設計した「積雪地方農山村経済調査所=現、雪の里情報館」やっぱり魅力的です。

・コバちゃんより、「小中学生のための漢字入門」の授業の授業記録。

 やはりこれは豊田泰弘さんの名著です。ちゃん曰く、”嫌われものの漢字”ですが、これは10年前、20年前の児童と今の児童は変わった、と言うけれど、生徒の感動は変わりません。児童の感想も秀逸です。

・シーマ・タカより、「アベノミクス考 外からの視点 ジム・ロジャース」朝日新聞より。

 アベノミクスの本質を、簡潔明瞭に衝いており、本物の投資家(?)の分析は鋭いです。但し、TPPに対する認識は、いただけません。「農業はコモンズ(社会的共通資本)であり、これを編成原理とする<地域社会農業>の構築こそ、日本農業再生の道である」という楠本雅弘さんの説は至言である。ソロバンはじいて判断するものではない。

 

周防猿回し 猿舞座 新庄公演

 6月19日(日)、市の「新庄エコロジーガーデン原蚕の杜」で、2012年以来の<周防猿回し>の公演がありました。前回は室内での公演でしたが、今回は晴天に恵まれ、中庭での公演でした。久しぶりに村崎修二さんにお会いし、元気な姿を拝見し嬉しくなりました。(写真は、当日の物ではありません。すみません)

f:id:zenninnaomote:20160624011417j:plain


 ところが当日、同じ場所で「携帯燻製器つくり」のワークショップを市役所職員で年の若い友人から頼まれ、公演を見る事が出来ませんでした。でも私の手伝いをしてくれていた女性たちが公演を見てきて、「素晴らしかったです。まるで子育ての話を聞いている様で、途中で涙が出てきました」との感想。
 お猿さんの芸は、3つか4つくらいしかありません。TVで有名になった「日光、サル軍団」とはだいぶ違います。厳しい訓練を繰り返し、出来なかったら叩かれたりする日光のお猿さんと違い、伝統的な日本猿の訓練法「本仕込み」(猿を無理に調教するのではなく、信頼関係を築き芸を覚えさせていくそうです。)で、お猿さんの性格や気持ちに寄り添って育てられています。だからお猿さんの機嫌が悪い時には芸をしなかったりも。そんなお猿さんペースに合わせ、一緒に猿舞を演ずる息子の耕平さんの話芸が秀逸です!!
 猿舞座は全国を行脚しています。お近くでの公演がありましたら、ぜひご覧ください。

 こんなことを書いていたら、「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんを思い出しました。
 彼は「私が提唱する自然栽培は、自然の生態を重んじて、それぞれが持っている力を利用して栽培する方法です。決して放任ではありません。<あなたは、手を加える、それは自然じゃない>と、そんなことを言われます。」
「私は徹底して手を加えます。赤ちゃんは生まれてすぐは、お母さんのお乳を飲み、いろいろな愛情を受けながら、大きくなって来た。種を蒔いて、あとは勝手に育ちなさいと。それは種にとって、少しかわいそう。小さい時は雑草に負けるから、雑草を処置してあげる。ある程度のびると、雑草を超していく、だから手がかからない。」
「もしも私リンゴの木だったら、トマトだったら、と置き換えて、私は接して来ている」と言います。
 そして、リンゴの木の自分で育つ力を信じて見守っているのですね。だから立派な根がはり、台風が来ても倒れない。そして奇跡の実をつける。

 お猿さんを育てるのも、リンゴを育てるのも同じなんですね。おっと、人間も同じですね。

はちべえの森 植林作業終る

6月18日(土)、快晴に恵まれ、新庄市飛田の上野のはちべえの森の植林作業が行われ、100本の杉苗と5本のブナの苗を植えました。植林は今年で3年目。これで完了です。

 参加者、7名。この日は暑かったのですが、林の中は木漏れ日の中、快適で、作業も順調に進みました。仕事が終わって、シャワーを浴びて、そのあとは「ご苦労振り」慰労会です。ビールが最高でした。途中、N倉さんより、サクランボの差し入れがありました。

 さて「はちべえの森」について

 これは、K司君所有の裏山で、山形県林業課の公募事業に応募した際に結成し、里山の有効活用を進めています。K司君を中心に山を整備し、オリエンテーリング歩道の整備や山小屋を設置し、地域の子供たちに活動を応援しながら、森に親しむ取り組みなどを行ってきました。

 彼の活動を開始するきっかけが、とっても素敵なので紹介します。

 「結成のきっかけとなったものは…齢86歳の長老が長きにわたり荒廃した山林に<杉を植えたい>と言い出した……?(これに彼は初め反対したが) 長老曰く<若き日に自分の今の家を建てる時に山から木を伐らせてもらった。その時の木を山から貰ったとは思っていない……木は山から借りたのだ……その借りた木を山に還して自分の人生を全うしたい、その後山の木は後世の人が使うかどうか、考えればいいことだ……>こうして団体の結成に至った」

 この長老の自然に対しての謙虚な姿勢、ここにはソロバンをはじいて、損か得かの経済的合理性はありません。自然は私たちの物ではなく、預かり物なのですね。(今で云うところの「社会的共通資本」)

東日本大震災と歴史からの学びを考える

    五年前の東日本大震災原発事故そして四月の熊本地震で、改めて歴史を勉強し歴史を記すことの意味を考えさせられた。特に前者は、ショッキングな映像とともに今も脳裏を焼き付いている。あの時、津波原発により、あらゆる人々が自然災害に対しての無力感を感じたであろう。それは日本の社会経済システムの崩壊とともに、人々の生き方・考え方を再考させる契機ともなった。とはいうもののあれほどの大災害でありながら、五年しか経っていないのに被災地への関心は薄れ、熊本地震でも原発事故の反省は生かされていないように思うのだが……。
 震災復興を考えたときに、私は歴史学の言い知れぬ無力感に襲われた。現状への対応力のなさとともに、歴史の事実を伝えることの難しさである。一つの新聞記事を紹介します。
    一九八六年。東北大大学院理学研究科の箕浦幸治元教授(六五)は弘前大時代、仙台平野の地層に砂の層を見つけた。海岸線から約四.五キロまでの地点に分布。貞観津波の運んだ堆積物とみられ、史実を科学的に裏付けた。警告の意を込め研究成果を発表したが、見向きもされなかった。「適当なことを言うな」と土建業者の嫌がらせ電話。メディアも取り上げず、警告は「黙殺」された。
 二〇〇一年。箕浦氏は相馬市でも砂層を発見、津波福島県にも及んだことを明らかにした。学内広報誌で「海岸域開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです」と警鐘を鳴らす。だが政府の中央防災会議は〇六年の報告で、貞観津波を防災対策の検討対象から外し、東京電力津波堆積物の独自調査で、「福島第1原発以南では貞観津波の痕跡はない」と結論付けた。仙台市も地域防災計画では貞観津波は頭にあったというが、再考はしなかった。
 二〇一〇年。産業技術総合研究所が貞観津波級の発生間隔を最長800年と推計した。貞観から約一一〇〇年。いつ来てもおかしくなかった。予言は当たった。
 「この震災を『想定外』とする評は全く当たらない。正当な評価ができなかっただけだ」
 箕浦氏は震災後の論文で指摘している。箕浦氏はことし三月、退官した。心境を聞こうと取材を申し込んだが、受けてもらえなかった。メディアとの関わりは基本的に断っていると聞く。(河北新報:二〇一五年七月一二日日曜日)
    私たち歴史を学び、勉強している者の役割とは、過去の歴史を正しく後世に伝えていく事であろう。戦後の歴史学もあの悲惨な戦争に対する反省から出発したはずである。だがしかし、上記の新聞記事に見る様に、正しく伝えたとしてもそれが〈正当に評価〉されるとは限らないのである。残念ながら歴史に学んでもらえなかったのである。
歴史的事実を知識としてだけでなく、より良く生きていく知恵として伝えるにはどうするのか。
    例えば「釜石の奇跡」と言われて有名になった「津波てんでんこ」の成功例がある。過去にいくども甚大な津波被害に遭ってきた三陸地方に伝わる言葉で「大地震がきたら、一刻も早くめいめいが高台へ逃げろ」が多くの人の命を救った。その背景には、過去の地震津波の際に、家族や知人を助けにいったことで避難が遅れ、多くの死傷者が生まれた事実ともに各小中学校において、積み重ねられてきた週一時間の防災教育と年三回の避難訓練があった。
    これは、〈繰り返しの語り継ぎ〉である。人の記憶は時間とともに薄れ、どんな大きな歴史的な事実も風化していく。これを防ぐためにも私たちには歴史を正しく伝えるとともに、繰り返して語り継ぐ責務があるのだと思う。
    五月の連休中、五日間宮城県金華山での復興ボランティアに参加してきた。そこには十数名の心優しい青年たちがいた。そして自ら被災しながらも震災後からボランティアとして住み込みで活動する七八歳の石巻の老人と岩手の陸前高田出身の二十歳の神官の姿があった。みんな素敵な笑顔で前を向き、自然に対する畏敬の念と謙虚な祈りの心が満ちていた。

 

    *これは、『最上地域史』第三十八号の巻頭言として書いたものである。